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VOL. 92 日本の文学小説を多数翻訳・出版

ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 •...

2023年06月12日
  • VOL. 90 寝ても覚めても勉強し3年でN1合格

    2023年03月31日
    日本に留学してまもなく「自分で努力しなければ、いつまでたっても日本語で会話できるようにならない」と気づいたウットさん。空いている時間はいつも日本語を勉強し、3年でN1に合格。日本での就職や帰国後の日系企業への就職でも大いに役立ちました。 今回の先輩 タ・ティ・ウットさん 2011年高校卒業 2012年日本語学校入学〈福岡県〉 2014年専門学校入学〈福岡県〉 2015年結婚、JLPT・N1合格 2016年専門学校卒業 2016年日本で就職〈愛知県〉 2017年夫の転勤に伴い帰国 2017年HISハノイ支店入社(正社員) 2019年出産 2020年日系の会計事務所入社〈ハノイ〉 〈1993年生まれ、ハノイ出身〉 ◆このページの内容 • 準備不足で訪日 • 日本語学校と専門学校に留学 • 学校選びに失敗 • 寝ても覚めても日本語を勉強 • アルバイトでたくさん日本語会話 • 私の家計簿 • 日本で留学生と結婚 • 夫の転勤で帰国 • ハノイで日系企業の正社員に • 別の日系企業に転職 • 日本留学で得たもの 準備不足で訪日 私の姉は2010年から日本に留学し、その後、日本人と結婚して今も日本に住んでいます。私は高校卒業後、姉に習って日本に留学することにしました。その準備として、ハノイの日本語センターの寮に住んで3カ月間勉強しました。その間は授業を含めて毎日6時間勉強しましたが、日本で暮らすために日本語がどれぐらい必要かわかっていなかったので、今から思うととても不十分な勉強でした。 ひらがな、カタカナと簡単な会話しか覚えずに日本に行った私は、当初、言葉のことでとても苦労することになります。 日本語学校と専門学校に留学 日本で一緒に暮らした姉(右) 私は2012年10月、姉が通っていた福岡市の「西日本国際教育学院」という日本語学校で留学を始めました。最初の3カ月間は学校の寮に住み、4カ月目からは姉と一緒に暮らしました。 日本語学校で1年半学んだ後、私は「国際貢献専門大学校」という専門学校に進みました。この学校は、私が通った日本語学校の系列校です。本当は他の大学か専門学校に行きたかったのですが、系列校に進学すれば学費が割り引かれるという特典にひかれてその専門学校を選びました。しかし、この学校を選んだことを後で大きく後悔することになりました。 学校選びに失敗 私はこの専門学校でITを学ぼうと思い、「情報ビジネス」を専攻したのですが、専門分野の授業はほとんど受けられませんでした。当時、この学校はできたばかりで、学校の準備不足によってITの教師が不足していたのです。 IT関係の授業は休講続きで、代わりにいつも日本語の授業を受けされられました。しかも、私は専門学校に入る前に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、当時はN2・N1を目指していたにもかかわらず、専門学校の日本語授業はN3・N4レベルでした。私は担任の先生に「もっとITの勉強をしたい」と何度も訴えましたが、何も改善されませんでした。後輩の皆さんは学校の評判をよく調べてから進学先を選んでください。 寝ても覚めても日本語を勉強 留学を始めて最初の数カ月間、私は日本語力不足でアルバイトが見つかりませんでした。友人からアルバイトを紹介してもらっても、工場など日本語を話さなくてもよい職場ばかりでした。私はまわりの日本人が話す日本語がほとんどわからず、自分の言いたいことも伝えられず、ストレスがたまっていつも家で泣いていました。 そして、「日本語がわからないと何もできない」「自分で勉強しないと、どれだけ日本人と交流しても話せるようにならない」と気づき、猛勉強を始めました。学校の授業以外に、昼でも夜でも休日でも空いた時間はできるだけ日本語を勉強し、アルバイト先でも上司や先輩とできるだけ会話するようにしました。 その結果、私は留学を始めて9カ月後にJLPT・N3に合格し、その2年後にN1に合格しました。最初は「みんなの日本語」を使い、N2・N1対策には市販の問題集を使いました。また、自分の好きなYouTubeチャンネル(日本語)を聴いてリスニングの練習をしました。 アルバイトでたくさん日本語会話 アルバイト仲間の日本人たちと焼肉会 日本語が話せるようになるにつれ、日本語を使うアルバイトに採用されるようになりました。そうなると、仕事をしながら日本語の練習ができ、わからない言葉や言い方は日本人の先輩や同僚に教えてもらえるので、日本語の会話力が急速に伸びていきました。 アルバイト探しについては、友人に紹介してもらうか、無料の求人情報誌を見て店に電話をかけ、面接を申し込みました。そして、アルバイト先の先輩や仲間と仲良くなり、一緒にご飯を食べに行くこともよくありました。また、クリーニング工場のおばさんは自宅に私と友人を招いてくれました。これらの人たちの中には、今もFacebookなどで連絡を取り合っている人もいます。 ◎私が日本で経験した主なアルバイト クリーニング 工場でクリーニングした大きなカーテンを2、3人でたたむ仕事。ホテルで使うカーテンでした。 ビジネスホテル ベッドメイキング、清掃 居酒屋 ホール(接客)、片付け、開店準備 レストラン キッチン、早朝の仕込み(料理の準備) 弁当店 キッチン、レジ 技能実習生の監理団体(組合) 通訳、技能実習生の生活サポート) 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校時代の家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:120,000円~150,000円 給料 ¥120,000~¥150,000 ※アルバイト2、3件 支出:158,000円~160,000円 学校の授業料 ¥55,000 家賃(ワンルーム) ¥50,000 ※1に暮らし、Wi-Fi・水道代込み 電気・ガス ¥8,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 食費 ¥25,000 ※バイト先で無料のまかないを食べることも多かった。 雑費 ¥10,000 ※交通費、学習教材、衣類 毎月の差額:▲10,000円~38,000円 ※夏休みなどの長期休みに多く働いて不足を補いました。 日本で留学生と結婚 新婚時代の夫と私 私の姉は福岡で日本語学校から大学に進学しましたが、ある日、姉の大学の同級生のベトナム人男性が姉と私の家に遊びに来ました。ほどなくして私は彼と付き合うようになり、約2年半後、彼は大学を卒業して日本で就職することになりました。その少し前に私たちは結婚し、福岡のベトナム総領事館に婚姻届けを出しました。その後、私も就職が決まり、名古屋に引っ越して一緒に住みました。 私は就職するまで3年半留学しましたが、生活費や学費を稼ぐために早朝や夜にアルバイトをし、それ以外は勉強に打ち込んでいたので、休日は疲れて横になっていることも多く、旅行にはあまり行きませんでした。夫と知り合ってからも一緒に公園やゲームセンターなどでデートするぐらいで、観光はあまりしませんでした。今にして思えば、日本にいる間にもっとあちこちに旅行しておけばよかったと思います。 夫の転勤で帰国 帰国直前にベトナムの家族を名古屋に招待 私たちは2015年に結婚し、私は正社員の夫の妻として日本に在留する予定だったので、本格的な就職活動はしていませんでした。しかし、夫の勤務地が名古屋に決まると、私は家の近くでできる仕事を探し、この会社に履歴書を送って面接を受けたところ、携帯電話ショップを運営する会社の正社員に採用されました。 日本の携帯電話ショップの店員は携帯電話の端末を売る仕事よりも通信契約に関する対応が多いので、さまざまなことを覚えなければなりません。そのため、通常は入社後6カ月間の新人研修を経てやっと店に出ることができます。研修では、接客マナーやパソコン操作、さまざまなサービス内容を学びますが、私は3カ月で覚えることができ、通常より早く店に出ることができました。しかし、就職して1年半後に夫がハノイに転勤になり、私も退職して帰国することになりました。 ハノイで日系企業の正社員に HISハノイ支店の入っているビル〈2018年〉 2017年7月に帰国してまもなく、私は日本の大手旅行会社HISのハノイ支店で正社員として働き始めました。店のカウンターで日本人客(主に駐在員)に航空券やホテル、ツアーを手配する担当でした。個人がインターネットで航空券やホテルを手配することもできますが、会社の業務で出張する場合に旅行会社を使うと、経理処理に必要なインボイスが発行されますし、顧客サービスも良いので、HISを使う日本人はとてもたくさんいました。 ところで、私は帰国が決まってすぐにハノイでの仕事を探し始めました。しかし、日本と違ってベトナムでは面接に合格したらすぐに働き始めてほしいという会社がほとんどだったので、結局、帰国後にFacebookで仕事を探し直し、HISに入りました。 別の日系企業に転職 HSKVのパーティー 私はHISで約2年半働き、出産を機に退職しました。そして、2020年からはHSKV(HSK Vietnam Audit Company)という日系の会計事務所で働いています。私の仕事は会長(日本人)の秘書で、秘書業務以外に下記のような仕事も担当しています。 監査報告書や移転価格報告書、事業概況報告書などの翻訳 顧客企業の帳簿の入力 顧客企業の給与計算表のチェック 個人所得税の計算と申告 顧客企業の日本人駐在員の労働許可証・ビザ・レジデンスカードの申請 HSKVの仕事もFacebookで探し、給料はHISのときより約30%上がりました。転職したのは、HISでは土日の出勤もあったため、出産後の生活に合わなくなったためです。今の会社を選んだのは、朝8時~9時の間に出勤し8時間勤務すればよいというフレキシブルな勤務時間と自宅から近いことが決め手でした。 ハノイに戻って2つの日系企業に就職して思うのは、日系企業への就職には、履歴書の内容よりも面接での評価(日本語会話力や対人能力など)の方が重視されるような気がします。 日本留学で得たもの 私は留学中、学校選びに失敗したことをとても後悔しました。しかし、学校で専門知識は得られなかったものの、自分で日本語の勉強やアルバイトに一生懸命に取り組み、3年でJLPT・N1に合格できました。また、アルバイト仲間に日本語で積極的に話しかけ、会話も十分にできるようになったので、ベトナムに帰国して日系企業に就職する際にとても役立ちました。 留学せずベトナムで日本語を勉強する人も素晴らしいですが、留学経験者の方が全体的にリスニング力が高く、日本での生活やアルバイトも経験したということで、日系企業での就職には有利なようです。私は日本で留学できて本当に良かったと思います。
  • VOL. 89 「みんなの日本語」の解説本を翻訳

    2023年03月24日
    日本語を学ぶ外国人の多くが最初に手にする日本語の教科書「みんなの日本語」。その解説本4冊を1人でベトナム語に翻訳したドンア大学副学長のヴィンさん。ヴィンさんの日本留学体験や学生時代の勉強方法などを紹介します。 今回の先輩 ゴ・クアン・ヴィン さん 1998年高校卒業〈クアンチ省〉 1998年ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部入学 2002年ハノイ大学卒業 2002年日本の設計会社で勤務(通訳・翻訳)〈ハノイ〉 2004年国立ダナン大学外国語大学日本語学科で日本語講師 2008年一橋大学で研究生として留学〈東京〉 2010年一橋大学修士課程入学 2012年一橋大学博士課程入学 2015年一橋大学博士課程修了 2015年国立ダナン大学外国語大学日本語・韓国語・タイ語学部長 2020年ドンア大学副学長兼日本言語文化学部長〈ダナン〉 〈1980年生まれ クアン・チ省出身〉 ◆このページの内容 •「みんなの日本語」の解説本を翻訳 • 大学で日本語を学び日系企業へ • 私の日本語学習法 • 6年半の日本留学 • 私の家計簿 • 留学中の交流 • 留学中に困ったこと • ベトナム語の専門書を日本語で出版 • ドンア大学について 「みんなの日本語」の解説本を翻訳 日本語を学ぶ外国人の多くが最初に使う教科書「みんなの日本語」の「翻訳・文法解説」があるのをご存じの方も多いと思います。「みんなの日本語」は日本語だけで書かれているので、十分に理解できないときに「翻訳・文法解説」を読めば、内容が理解しやすくなります。私は2013~16年に「みんなの日本語」初級Ⅰ、初級Ⅱ、中級Ⅰ、中級Ⅱの「翻訳・文法解説」をベトナム語に翻訳しました。 この翻訳を始めたとき、私は一橋大学(東京)で留学していましたが、そのときの指導教官が私のベトナム語力と日本語力を高く評価し、出版社に推薦(すいせん)してくださったことがきっかけでした。翻訳する際には、もとの日本語の意味ができるだけ正しく伝わるベトナム語にしたいと思い、言葉をていねいに選びながら時間をかけて翻訳しました。 大学で日本語を学び日系企業へ 会社の仲間と日本の石炭鉱山の見学 私が高校のとき、有名な日本ドラマ「おしん」がベトナムで放送されていました。わたしは主人公・おしんのけなげな生き方や勤勉さ、ドラマに出ていた昔の日本家屋などがとても気に入って、日本についてもっと知りたくなりました。高校では英語コースでしたが、大学では別の外国語を勉強しようと思っていたこともあり、ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部に入りました。 私は大学で4年間日本語を学んだ後、新聞の広告欄で見つけた日系企業に入りました。これは木造住宅の構造設計をする会社で、私は日本人の社長や技術者たちとベトナム人スタッフとの間の通訳や書類の翻訳をするチームのリーダーとして働きました。その後、大学で日本語を教える仕事に興味を持つようになり、知人の紹介で国立ダナン大学の日本語講師になりました。 私の日本語学習法 ハノイ外国語大学の教室で 私は大学生のとき、大学のゼミや講義以外に毎日6~8時間、自習しました。インターネット上の学習素材も紙の日本語教材も少ない時代だったので、今よりも勉強に工夫が必要でした。そのときに私が行った勉強方法を紹介します。 新聞の1面のコラムを読む:私は日本の新聞の1面のコラムを読み、ほぼ毎日、その内容について大学の先生と日本語でディスカッションしました。 自分で文章を作って読む:参考書に書かれている語彙(ごい)や文型を使って文章を作り、自分で声を出して読みました。 ハノイ大学日本語学部の級友たちとお出かけ これ以外に、古本屋で日本の古新聞を買い、何度も辞書を引きながら読みました。言葉の勉強では、やはり辞書を使い込むことが大事です。それでも理解できない部分がたくさんあったので、私は大学でただ1人の日本人の先生にアポを取り、質問に応じてもらいました。ただ、当時ハノイには日本人がまだ少なく、ネィティブの日本人との会話練習がほとんどできないのは残念でした。 6年半の日本留学 修士課程を修了 ダナン大学で講師をしているとき、日本の文部科学省が提供する留学生向け奨学金に応募しました。そして、在ベトナム日本国大使館で試験を受けて合格し、国費留学生として日本に行くことになりました。留学先には東京外国語大学も検討しましたが、少人数で勉強・研究できる一橋(ひとつばし)大学を選びました。 こうして私は2008年10月に一橋大学の研究生として訪日し、研究生1年半、修士課程2年、博士課程3年の計6年半、文科省の奨学金で留学しました。そのうち約2年間は妻と一緒に暮らしましたが、妻が2011年に東日本大震災による原発事故を契機に帰国してからは妻子と離れて留学しました。 妻と息子 私は留学中はずっと学費無料で奨学金も受給していたので、アルバイトは最小限にしてできるだけ勉強をしました。しかし、毎年、お盆とテト(旧正月)に帰国するための旅費がかかり、普段は節約生活を強いられました。私がよく使った便は成田→香港→ハノイ→ダナンというルートで、乗り継ぎが悪いため安価でした。一番安いときは往復28,000円でしたが、留学中に燃油サーチャージ(12,000円~15,000円)を加算する制度が始まり、大きな痛手でした。また、当時はSNS電話がなかったので、30分3,000円の国際電話(当時としては格安)でたまにだけ妻と話しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※博士課程のときの家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:200,000円 奨学金 ¥150,000 給料 ¥50,000 ※アルバイト(通訳・翻訳、辞書作りの手伝いなど) 支出:100,000円 授業料 ¥0 家賃 ¥50,000 ※東京都内、ワンルーム 電気・ガス・水道 ¥5,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 ※国際電話代を含む インターネット ¥6,000 食費 ¥35,000 ※昼は大学の食堂、夜は主に自炊。 交際費 ¥15,000 雑費・交通費 ¥20,000~¥25,000 ※衣類、教材、交通費、化粧品など 毎月の差額(貯金):60,000円 ※貯めたお金で帰国の際の航空券などを購入。 留学中の交流 ベトナム人仲間と東京で日本庭園(夜間ライトアップ)を見学 6年半も日本に住んだので、日本人との交流もたくさんありました。指導教官やゼミの仲間と食事に行ったほか、アルバイトを通じて知り合った人たちとも交流しました。 ベトナム人同士の交流もありました。国費留学に合格した同期のメーリングリストがあったので、日本に行ってから留学生同士の交流のきっかけになりました。 また、東京のベトナム大使館が独立記念日やテトの際に行うイベントもあり、そこでもベトナム人同士の交流ができました。 留学中に困ったこと external link KOKORO|花粉症について(※クリック) ところで、留学中に困ったこともたくさんありました。 休日に病気になったとき 休日に医療機関に行っても対応してくれず、困りました。留学3年目に花粉症になり、くしゃみと鼻水がひどく、とても疲れました。そこで、週末に2、3カ所の医療機関に行きましたが、休日なので受け付けてくれず、どうしたらよいかも教えてくれませんでした。その後、平日になんとか時間を作ってクリニックに行き、薬を処方してもらいました。また、ひどい腹痛のときに近くの病院に電話しましたが、「大きな症状やけがなら診(み)るが、今回は無理です」と断られ、がまんするしかありませんでした。いずれも機械的な対応で、「外国人だから対応が悪いのでは」と感じました。日本は外国人向けの公的な救急医療制度をもっと充実させるべきだと思います。 external link KOKORO|日本での住宅の探し方(※クリック) 住宅探し アパートを探すとき、外国人だから借りられない物件がたくさんありました。その後、当時よりはましになったものの、今も外国人お断りの物件が多いと聞きます。 外人扱い 電車内でベトナム人同士で会話していると、そばにいた日本人たちが向こうに行ってしまいました。日本の電車内でのマナーを理解して私たちは小さな声でしゃべっていたのに、そのような行動をされ、残念でした。また、電車内でくしゃみをすると、マスクをしていても周囲から冷たい視線を受け、これも外国人への偏見のように感じました。このため、かぜをひいたときは電車に乗るのがおっくうでした。 日本人はもっと外国に出て国際感覚を高めてほしいですし、日本の行政は外国人が居心地よく暮らせるように、地域の外国人サポート窓口をもっと充実させてほしいと思います。 ベトナム語の専門書を日本語で出版 external link この本のAmazonでの販売ページ(※クリック) 2015年に留学を終えた私はその年から国立ダナン大学 外国語大学の日本語・韓国語・タイ語学部長になりました。そして、2020年にドンア大学の副学長兼日本言語文化学部長になりました。 私は留学中に日本語教育やベトナム語の類別詞について研究しました。類別詞とは名詞の数え方です。例えば日本語で「一つ」「1枚」「1個」などと数えるときの「つ」「枚」「個」などが類別詞で、ベトナム語ではどのような類別詞があるのかを留学中の博士論文にまとめました。この論文を帰国後にさらに精査して書き直し、2023年に「現代ベトナム語の類別詞研究: 類別詞の本質とその意味・用法」という日本語の専門書を出版しました。Amazonでも購入できますので、ベトナム語の研究者や教師・学習者の方々に活用していただければ幸いです。 ドンア大学について 最後に副学長兼学部長としてドンア大学日本言語文化学部について紹介します。当学部では次のような点を重視して日本語教育を行っています。 日本語を「読む・書く・聞く・話す」ために必要な基礎学力と専門知識を養い、日本語で考える力や日本語コミュニケーション力の向上を目指しています。 日本文化を深く多角的に理解する人材を育てるため、インターンシップや文化交流、交換留学などのプログラムを充実させています。 ダナンの日系企業で見学や研修を行い、日本語を活かした仕事への理解や日本語コミュニケーション力の向上に努めています。 こうしたプログラムには、私や教師陣の留学経験も活かされています。
  • VOL. 88 支援団体の支援で在留延長と再就職

    2023年03月17日
    作業の準備・後片付け(毎日約2時間)に残業代が支払われないなど、建設の技能実習生の平均よりかなり低い給料で働かされたうえ、職場での暴力・暴言もあって失踪したフイさん。一度は日本が大嫌いになりましたが、支援団体のサポートで日本滞在を延長して働き、特定技能の試験にも合格しました。 今回の先輩 カ・チャン・ホアン・フイさん 2013年高校卒業〈ホーチミン市〉 2013年観光バスの添乗員〈タイニン省〉 2016年トラック運転手〈ロンアン省〉 2019年送出機関で勉強〈ホーチミン市〉 2019年来日→講習→技能実習〈山梨県〉 2020年失踪し、友人宅に4カ月間滞在〈東京〉 2021年日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年アルバイト〈北海道、長野、鹿児島〉 2022年一時帰国 〈1995年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 • 日本語をほとんど学ばずに来日 • コンクリート関係の仕事 • 長い移動時間に睡眠禁止 • 十分にもらえなかった残業代 • 私の家計簿 • 低賃金と暴力・暴言 • 組合に相談しても改善せず • 失踪中の生活 •「日越ともいき支援会」に助けられ • 漁業やレストランでアルバイト • これからも日本で働く 日本語をほとんど学ばずに来日 私は高校を出て、観光バスの添乗員やトラック運転手をしていましたが、毎月の給料は約7,000,000 VNDしかありませんでした。そんなとき、いとこが日本に技能実習に行って順調に働いていたので、私も出稼ぎのために技能実習をすることになりました。 私は送出機関に登録し、会社の面接を待ちながら日本語で自己紹介をする練習をしました。2019年4月に面接に合格後、きちんとした日本語の授業を受けましたが、それは3カ月間だけだったので、ほとんど日本語が分からない状態で日本に行きました。送出機関には132,000,000VND(当時のレートで約65万円)を支払い、これ以外に寮費や食費(外食)なども必要でした。 コンクリート関係の仕事 生コンクリートを送り込むトラック(イメージ写真) こうして私は2019年7月に来日し、翌月からコンクリート関係の技能実習を始めました。勤務先は山梨県の会社で、大きなトラックが数台ありました。トラックの荷台には折りたたみ式のアームとホースが付いており、工事現場でこれらを伸ばして、離れた場所や高い場所に生コンクリート(生コン)を流し込みます。ミキサー車で作った生コンをトラックのポンプとホースで建築物に送り込むのです。 私たちの作業(イメージ写真) 私たち技能実習生は生コンを流し込む場所にホースの先を運びました。その後、生コンを床に流し込むときはホースを置いて固定できますが、壁などに流し込む場合は、私たちがホースを肩に担いで2、3時間立ち続けました。太いホースは2人で担ぎ、細いホースは1人で担ぎますが、細いホースでもかなり重く、担ぎ続けるのはきつい仕事でした。 長い移動時間に睡眠禁止 私たちの平均的な1日はこうでした。 4:30 起床 5:00 トラック6、7台で会社(私たちの寮の隣)を出発。現場まで平均1時間~1時間半。 6:00~6:30 現場到着。仕事の準備(平均1時間)。準備が早く終われば休憩。 8:00~17:00 仕事(途中で3回・計90分休憩) 17:00 後片付けなど 18:00 現場を出発 19:00~19:30 帰宅 現場への往復は、トラック1台に3人(日本人1人、ベトナム人2人)が乗り、日本人が運転しました。しかし、私たちが何か話すと日本人が怒り、眠っても怒られるので、私たちは車内でずっと黙って景色を眺めていました。技能実習生はSIMを持っていないので車内では携帯電話も使えず、移動時間はとても退屈で疲れました。 十分にもらえなかった残業代 external link KOKORO|給与、残業代、有給休暇 会社から現場まで片道3、4時間かかることもありました。しかし、往復6~8時間の移動が毎日続いても、手当はまったく増えませんでした。また、それ以外にも次のようなことがありました。 ①毎日忙しく、昼の休憩なしで働き続けることが2日に1回ほどありました。しかし、昼の休憩(1時間)をつぶして働いても残業代は増えませんでした。 ②毎日、準備と後片付けで平均2時間働きましたが、この時間にも残業代が支払われませんでした。 準備以外の正規の作業時間が延びることもありましたが、私たちがもらった残業代(毎月5時間分)はそれすらカバーできない額でした。このため手取り給料は9~10万円しかありませんでした。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:100,000円 給料 ¥100,000 *税金や社会保険、寮費、光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(15,000円)、電気・ガス・水道(6,000円) 支出:45,000円 食費(主に自炊) ¥30,000 生活雑貨、衣類 ¥10,000 交際費など雑費 ¥5,000 毎月の差額:55,000円 低賃金と暴力・暴言 私はベトナムでこの会社の社長に面接(通訳付き)をしてもらったとき、毎月18万円もらえると聞きました。しかし、来日して先輩に聞くと、手取り18万円もらえたのは1回だけだったそうです。 移動時間が長く、仕事内容は過酷で、残業代も十分に支払われないうえ、一緒に働く日本人の一部(3人)は気に入らないことがあるとすぐに怒鳴りました。私はラチェットレンチという工具で頭をたたかれたことも2回あり、ヘルメットをかぶっていても大変な衝撃でした。私はこのような理不尽な職場に失望し、失踪することにしました。 組合に相談しても改善せず 左:仕事で毎日顔が汚れました。右:疲れて休憩時間に現場で眠る先輩。 技能実習では監理団体(組合)が実習生のケアをします。組合の担当者はベトナム人通訳を伴って毎月2回、会社に来ましたが、私たちとの面談には毎回、会社幹部が立ち会いました。組合によっては、正社員の通訳が実習生の悩みを直接聞くシステムもありますが、この組合の通訳は毎回違う人(アルバイト)で、頼りになりませんでした。私たちは残業代不払いや移動時間に眠れないことなどを改善してほしいと組合に何度かお願いしましたが、何ひとつ改善されませんでした。 失踪中の生活 こうして、私はこの会社で働き始めて13カ月目の2020年9月、現金20万円と小さな荷物を持って会社を去りました。社長に告げ口されると困るので、ほかの実習生2人にも黙って失踪しました。 思い描いていた日本とは違ったので、私は一刻も早くベトナムに帰りたいと思いました。しかし、新型コロナの影響でベトナムへの航空券が手に入らなかったので、チケットが取れるまで友人のミン君(仮名)の家に泊めてもらうことにしました。彼は日本で知り合った友人で、別の会社を失踪し、東京に住んでいました。私は電車を約3時間乗り継いで彼のところに行きました。彼は不法就労をしている様子でしたが、私は早く帰国したいので働きませんでした。しかし、航空券はなかなか買えず、2021年1月に入ると、所持金は約5万円しか残っていませんでした。 「日越ともいき支援会」に助けられ external link KOKORO|日越ともいき支援会 そんなとき、ミン君が「NPO法人日越ともいき支援会」のことを聞いて私に教えてくれました。2021年1月、私は支援会にベトナム語でメッセージを送り、事務所を訪ねました。すると、その日から支援会のシェルターに無料で住めることになり、数十人の元実習生と共同生活を送りました。 私は支援会で約2カ月間、毎日、日本語の授業を受け、自習も何時間もしました。その間、支援会は外国人技能実習機構(OTIT)や以前の組合、入管と連絡を取り、私が日本に残って働くためのさまざまな打ち合わせや手続きをしてくれました。おかげで私は新型コロナに関連する特例の在留資格を取得できました。この在留資格の期間は6カ月でしたが、その後2回更新でき、私は日本で約1年半、アルバイトをすることができました。 漁業やレストランでアルバイト 左:ホタテ貝。右:軽井沢。 ホタテの養殖 日本に残って働けることになった私は、支援会の紹介で北海道のホタテ養殖業者で2021年3月から3カ月間アルバイトをすることになりました。小さなホタテ貝を海から引き上げ、貝がらに穴を開けて糸でつなげるのが主な仕事で、主に陸で働き、ときどき船に乗りました。 レストラン ホタテ養殖の繁忙期が終わり、東京に戻って支援会などに泊めてもらった後、9月から3カ月間、長野県・軽井沢の高級レストランで働きました。野菜を切ったり皿を洗ったりする仕事で、まかない(従業員向けの食事)を1日3食食べられるのが魅力でした。軽井沢は有名なリゾート地なので、休みの日には、別の店で働くベトナム人と一緒に町を散策しました。 ラーメン店 3つめのアルバイトは鹿児島県のラーメン店「田所商店」で、仕込み(野菜やチャーシューを切る)、麺(めん)をゆでる、食材を炒(いた)める、スープを作る、皿洗いなど幅広い仕事を担当しました。全国展開の人気店で、私はこの店で2021年12月の新規オープンから約9カ月間働きました。一緒に働いた日本人は皆さん親切で、来日してから一番働きやすい職場でした。 これからも日本で働く 私は北海道のアルバイトから長野県のアルバイトに移る間、日越ともいき支援会に泊めてもらったほか、JP MIRAI(JICAなど主催)が東京で開いた元技能実習生向け研修会に参加しました。約1カ月半に渡ってJICAの施設に住み、日本語の授業を受けたり、今後のキャリアについて学んだりしました。 日越ともいき支援会のおかげで、私は引き続き日本で働く方法があることを知りました。そして、JFT-Basicで238点を取り、特定技能「外食業」の技能試験にも合格しました。そこで、2022年9月にいったんベトナムに帰国し、特定技能の在留資格を申請中です。特定技能外国人として再び来日したら、これまでと同じラーメン店で働きます。これまでの日本滞在では、来日前に借りたお金を返すのが精一杯だったので、今度こそしっかり貯金したいと思います。

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【在ベトナム日本国大使館後援】

  • Vol. 58 故郷で焼酎工場を作りたい

    今回の先輩 グエン・ヴァン・カインさん 2008年 高校卒業 2008年 ナムディン日本語日本文化学院入学 2010年 ナムディン学院卒業 2010年 建築の技能実習〈岡山県〉 2011年 JLPT・N3合格 2013年 JLPT・N2合格 2013年 ベトナムに帰国 2015年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2019年 南九州大学卒業 2019年 酒造メーカーに就職(正社員)〈宮崎県〉 2019年 日本人女性と結婚 〈1990年生まれ、ナムディン省出身〉 技能実習で貯めたお金で大学に留学し、日本の酒造会社に就職したカインさん。将来は故郷で焼酎工場を作るという目標を持つカインさんの留学生活の送り方や就職活動の動き方をリポートする。 〈このページの内容〉 • ベトナムで日本語学校に1年半 • 職歴に関する書類の内容に注意 • 技能実習 • 留学 • 学費とアルバイト • ハローワークで就職活動 • 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 • ボランティア日本語教室を活用 • 日本人女性と結婚 • 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナムで日本語学校に1年半 故郷のYÊN CƯỜNG村〈2014年〉 私はナムディン省の高校を卒業し大学進学も考えましたが、親せきの紹介でナムディン日本語日本文化学院に入りました。自宅から遠かったので、同じ村から入学した5人でアパートをシェアしました。学院では毎日15:40ごろまで授業を受け、夕食後にまた学院に戻ってみんなで3、4時間自習しました。 ナムディン学院で1年半勉強し、本当はすぐに留学したかったのですが、お金がかかるので、まず技能実習をすることにしました。人づてにホーチミンの送出機関を紹介してもらい、約60,000,000 VND(約29万円)で日本に行くことができました。ナムディン学院で日本語を十分に学んだので、送出機関には日本語教育費は支払いませんでした。 職歴に関する書類の内容に注意 ナムディン日本語日本文化学院のクリスマス会〈2013年〉 技能実習の在留資格を申請する際に気をつけたことがあります。技能実習は、生徒が母国で経験した職業の技術を日本で高めるという名目で行われていますが、実際は、大半のケースで求人内容に合わせて生徒の職歴を偽装して在留資格を申請しています。もし、その申請の際に提出した職歴の内容を知らず、技能実習が終わってから留学の在留資格を申請する際に違う職歴を提出すると、申請が許可されないことがあります。 私は職歴に関する書類作成を送出機関だけに任せず、ナムディン学院の先生と一緒に内容をよく考えて作成しました。そして、入管に提出した書類はすべてコピーして保管しました。 技能実習 職場の先輩日本人や後輩ベトナム人と旅行〈奈良で2013年〉 こうして、私は2010年10月に訪日し、岡山県備前市で技能実習を始めました。従業員40~50人ぐらいの会社で、実習生は私を含めて2人でした。仕事は住宅や工場の解体です。建築・解体の現場には気の荒い人が多いと言われていますが、私はベトナムで日本語を十分に勉強してから訪日したので、最初から職場でのコミュニケーションがうまくいき、皆さんに親切にしていただきました。60代の先輩が私に特に親切で、よく車で日帰り旅行に連れて行ってくださいました。奈良・京都・大阪には一緒に1泊で旅行しました。この方とは留学で再訪日してからも時々お会いしています。 技能実習で私の手取り給料は毎月10万~11万円でした。ここから毎月7~8万円ずつを実家に送金し、送金額は3年間で約250万円(約522,000,000 VND)になりました。訪日時の費用や母の通院費などを差し引いても約150万円残ったので、それをその後の留学の資金にしました。 留学 大学での実習(左の奥が私) 技能実習を終えた私は帰国してナムディン学院で講師をしました。技能実習の監理団体(受入組合)が送出機関への就職を紹介してくれましたが、ロイ校長の助言で学院に戻りました。ここで1年4カ月、後輩に教えながら自分も日本語学習を続けました。技能実習生には、「日本で学んだ技術を母国に移転する」という役割があるため、一定期間を経ないと留学の在留資格を申請しても許可されないからです。 その後、ナムディン学院と提携する南九州大学(宮崎県)の入試をハノイで受け、合格しました。技能実習の3年目に日本語能力試験(JLPT)・N2に合格していたので、作文の試験を免除され、面接(日本語)だけでした。私は日本の酒造技術を学び、それを応用してベトナムで焼酎を醸造したいと考え、食品関係の学部を選びました。留学して最初の約4カ月間はアルバイトをせず、勉強に集中しました。授業で専門用語も多く、予習・復習に時間がかかったからです。大学時代は授業以外に毎日3~5時間勉強しました。平日は毎日5時間のアルバイトがあったので、授業のないときや週末に勉強しました。 学費とアルバイト アルバイト仲間の日本人たちと過ごす休日〈宮崎市内で2019年〉 留学する際は、最初に約100万円を入学金や1年目の授業料などとして支払い、それ以外に約50万円を持って日本に来ました。4年間の留学費用は主にそのお金とアルバイトとでまかないましたが、それができた背景には下記のような要因がありました。 • 南九州大学では、外国人留学生の授業料が半額 • 2年目から同郷の後輩2人とアパートをシェア • 2年生のときに1年間で計360,000円の奨学金をもらえた(大学からの紹介) アルバイトは求人サイトで探しました。日本語をある程度話せたので、1軒目の居酒屋で採用され、そこで卒業まで働きました。いなかはのんびりしているので、お客さんたちが「どこから来たの?」「学生さんですか?」などと私に話しかけてくださり、お客さんや日本人のアルバイト仲間との会話で日本語が上達しました。仲間とは、勤務後に数人で飲みに行ったり休日にショッピングモールに出かけたりもしました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年のときの家計簿 ※100円=20,877 VND(※2021年4月2日現在) 収入(合計100,000円) アルバイト1件(居酒屋) 100,000円 支出(合計102,000円~107,000円) 家賃 12,000円 ※アパートを3人でシェア 授業料 50,000円 光熱費  7,000~10,000円 ※電気・ガス・水道代の合計 インターネット(Wi-Fi) 2000円 ※3人で分担 携帯電話 3000円 ※Y-mobile 食費  20,000円 雑費 8,000円~10,000円 ※衣類、教材、交通費など 毎月の差額・貯金 ▲2,000円~▲7,000円 ※長期休暇時のアルバイト料などで補てん ハローワークで就職活動 大学で焼酎の造り方を研究。就職活動も酒造会社に絞って応募。 私は大学2年のときに2週間、3年のときに10日間、同じ酒造会社でインターンシップをさせていただき、焼酎づくりの基礎を学びました。社長からは就職の内々定をいただいていましたが、4年生の初めに事情が変わりました。この会社が買収され、経営者が変わったのです。私の内々定も立ち消えになり、私は周囲より遅れて6月から就職活動を始めることになりました。 大学生の多くは「マイナビ」サイトを使って就活をしますが、私は公的機関であるハローワークのサイトで求人を探しました。狙いは、歴史があって従業員の少ない酒造会社です。「歴史=技術力と信用」、「少人数=酒造技術を全般的に学べる」という観点でした。ネットで調べてから6月末ごろ、地元のハローワーク事務所に行って履歴書を提出し、4社に申し込みました。すると、1社は外国人を採用していませんでしたが、残り3社は面接をしてくれました。 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 私が就職した岩倉酒造場〈2020年〉 外国人留学生の採用面接では避けて通れない関門があります。「あなたはいつまで日本で働くつもりですか」という質問です。私は日本で学んだ技術をベトナムに持ち帰って起業することが夢です。このことを面接で話すべきかどうか、私は大学の研究室の先生に相談しました。先生は「目標があるのなら、正直に答えた方がよいのではないか」という意見で、私もそうすることにしました。 2020年7月に受けた3社の面接で、やはりどの社からもこのことを聞かれました。福岡県の焼酎メーカーの担当者はわざわざ宮崎まで来てくださり、よい雰囲気で面接が進みました。しかし、終盤にこの質問が出て正直に答えると、面接の雰囲気が変わり、採用してもらえませんでした。しかし、残り2社は、私が正直に答えたのに内々定をくれました。私はその中で宮崎県西都(さいと)市の岩倉酒造場という会社にお世話になることにしました。約160年の歴史がある会社です。現在、働き始めて1年経ちましたが、とても働きやすい職場です。 ボランティア日本語教室を活用 和気町の日本語教室の先生の家で懇親会〈2013年〉 私は技能実習で日本に来た翌年にJLPT・N3、3年目にN2を取得しました。仕事が終わってから家で毎日2、3時間勉強したほか、ボランティア日本語教室に通いました。最初は監理団体の通訳の紹介で岡山市内の教室に通いましたが、授業が難しすぎました。そこで、レベル別にクラスがある倉敷市の教室に移り、毎週日曜に2時間の無料授業を受けました。家の近くの駅から倉敷までは電車で片道約80分(往復の電車賃は約2,000円)かかりましたが、将来の財産になるので時間とお金をかけました。 技能実習2年目には、岡山県和気(わけ)町でも無料日本語教室を見つけ、倉敷の教室も続けながら毎週火曜の夜に授業を受けました。和気の教室の先生は年に数回、自宅に生徒数人を招いて食事会をしてくれました。ここで知り合ったベトナム人仲間とは、テト(旧正月)の食事会をするなど交流が深まりました。 日本人女性と結婚 故郷で結婚式〈2019年〉 和気町の日本語教室の先生に私と年の近い女性がいました。この女性は勤務先の同僚のベトナム人が日本語を話せず困っている姿を見て、外国人に日本語を教えるボランティアに参加したそうです。女性はその後、仕事をやめてホーチミンに渡り、送出機関で2年間日本語を教えることになりました。同じころ、技能実習が終わってナムディンに戻っていた私は、SNS(メッセンジャー)でこの女性からのさまざまな相談に応じるようになりました。 私の留学2年目の2016年春、帰国して岡山に戻っていたこの女性が宮崎に遊びに来てくれました。すると、女性は宮崎の土地柄や気候が気に入ったと言って半年後に宮崎に引っ越して来て、私たちは付き合うようになりました。2019年11月、私たちはナムディンで約500人を招いて結婚式を挙げ、今年5月には子どもが生まれる予定です。将来は家族でナムディンで暮らす予定です。 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナム人のサッカーチーム(試合前の記念撮影)〈宮崎市内で2021年〉 私は2020年11月にベトナム人仲間とボランティア日本語教室を立ち上げました。毎週日曜に交代で実習生やエンジニアに日本語を教え、普段の生活サポートも行います。日本人の先生もいます。また、宮崎県には現在、ベトナム人のサッカーチームが8チームあります。私のチームには技能実習生やエンジニア、留学生がいます。毎週日曜に河川敷で練習し、ときどきメンバーの自宅で食事会をします。 このように充実した日本生活を送っていますが、数年後にはベトナムに帰って小さな焼酎醸造所を立ち上げることが私の目標です。大好きな日本でまだまだ多くのことを学びたいと思っています。 今回の先輩 (グエン・ヴァン・カイン)さん 2008年 高校卒業 2008年 ナムディン日本語日本文化学院入学 2010年 ナムディン学院卒業 2010年 建築の技能実習〈岡山県〉 2011年 JLPT・N3合格 2013年 JLPT・N2合格 2013年 ベトナムに帰国 2015年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2019年 南九州大学卒業 2019年 酒造メーカーに就職(正社員)〈宮崎県〉 2019年 日本人女性と結婚 〈1990年生まれ、ナムディン省出身〉 技能実習で貯めたお金で大学に留学し、日本の酒造会社に就職したカインさん。将来は故郷で焼酎工場を作るという目標を持つカインさんの留学生活の送り方や就職活動の動き方をリポートする。 〈このページの内容〉 • ベトナムで日本語学校に1年半 • 職歴に関する書類の内容に注意 • 技能実習 • 留学 • 学費とアルバイト • ハローワークで就職活動 • 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 • ボランティア日本語教室を活用 • 日本人女性と結婚 • 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナムで日本語学校に1年半 私はナムディン省の高校を卒業し大学進学も考えましたが、親せきの紹介でナムディン日本語日本文化学院に入りました。自宅から遠かったので、同じ村から入学した5人でアパートをシェアしました。学院では毎日15:40ごろまで授業を受け、夕食後にまた学院に戻ってみんなで3、4時間自習しました。 ナムディン学院で1年半勉強し、本当はすぐに留学したかったのですが、お金がかかるので、まず技能実習をすることにしました。人づてにホーチミンの送出機関を紹介してもらい、約60,000,000 VND(約29万円)で日本に行くことができました。ナムディン学院で日本語を十分に学んだので、送出機関には日本語教育費は支払いませんでした。 故郷のYÊN CƯỜNG村〈2014年〉 職歴に関する書類の内容に注意 技能実習の在留資格を申請する際に気をつけたことがあります。技能実習は、生徒が母国で経験した職業の技術を日本で高めるという名目で行われていますが、実際は、大半のケースで求人内容に合わせて生徒の職歴を偽装して在留資格を申請しています。もし、その申請の際に提出した職歴の内容を知らず、技能実習が終わってから留学の在留資格を申請する際に違う職歴を提出すると、申請が許可されないことがあります。 私は職歴に関する書類作成を送出機関だけに任せず、ナムディン学院の先生と一緒に内容をよく考えて作成しました。そして、入管に提出した書類はすべてコピーして保管しました。 ナムディン日本語日本文化学院のクリスマス会〈2013年〉 技能実習 こうして、私は2010年10月に訪日し、岡山県備前市で技能実習を始めました。従業員40~50人ぐらいの会社で、実習生は私を含めて2人でした。仕事は住宅や工場の解体です。建築・解体の現場には気の荒い人が多いと言われていますが、私はベトナムで日本語を十分に勉強してから訪日したので、最初から職場でのコミュニケーションがうまくいき、皆さんに親切にしていただきました。60代の先輩が私に特に親切で、よく車で日帰り旅行に連れて行ってくださいました。奈良・京都・大阪には一緒に1泊で旅行しました。この方とは留学で再訪日してからも時々お会いしています。 技能実習で私の手取り給料は毎月10万~11万円でした。ここから毎月7~8万円ずつを実家に送金し、送金額は3年間で約250万円(約522,000,000 VND)になりました。訪日時の費用や母の通院費などを差し引いても約150万円残ったので、それをその後の留学の資金にしました。 職場の先輩日本人や後輩ベトナム人と旅行〈奈良で2013年〉 留学 技能実習を終えた私は帰国してナムディン学院で講師をしました。技能実習の監理団体(受入組合)が送出機関への就職を紹介してくれましたが、ロイ校長の助言で学院に戻りました。ここで1年4カ月、後輩に教えながら自分も日本語学習を続けました。技能実習生には、「日本で学んだ技術を母国に移転する」という役割があるため、一定期間を経ないと留学の在留資格を申請しても許可されないからです。 その後、ナムディン学院と提携する南九州大学(宮崎県)の入試をハノイで受け、合格しました。技能実習の3年目に日本語能力試験(JLPT)・N2に合格していたので、作文の試験を免除され、面接(日本語)だけでした。私は日本の酒造技術を学び、それを応用してベトナムで焼酎を醸造したいと考え、食品関係の学部を選びました。留学して最初の約4カ月間はアルバイトをせず、勉強に集中しました。授業で専門用語も多く、予習・復習に時間がかかったからです。大学時代は授業以外に毎日3~5時間勉強しました。平日は毎日5時間のアルバイトがあったので、授業のないときや週末に勉強しました。 大学での実習(左の奥が私) 学費とアルバイト 留学する際は、最初に約100万円を入学金や1年目の授業料などとして支払い、それ以外に約50万円を持って日本に来ました。4年間の留学費用は主にそのお金とアルバイトとでまかないましたが、それができた背景には下記のような要因がありました。 • 南九州大学では、外国人留学生の授業料が半額 • 2年目から同郷の後輩2人とアパートをシェア • 2年生のときに1年間で計360,000円の奨学金をもらえた(大学からの紹介) アルバイトは求人サイトで探しました。日本語をある程度話せたので、1軒目の居酒屋で採用され、そこで卒業まで働きました。いなかはのんびりしているので、お客さんたちが「どこから来たの?」「学生さんですか?」などと私に話しかけてくださり、お客さんや日本人のアルバイト仲間との会話で日本語が上達しました。仲間とは、勤務後に数人で飲みに行ったり休日にショッピングモールに出かけたりもしました。 アルバイト仲間の日本人たちと過ごす休日〈宮崎市内で2019年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年のときの家計簿 ※100円=20,877 VND(※2021年4月2日現在) 収入(合計100,000円) アルバイト1件(居酒屋) 100,000円 支出(合計102,000円~107,000円) 家賃 12,000円 ※アパートを3人でシェア 授業料 50,000円 光熱費  7,000~10,000円 ※電気・ガス・水道代の合計 インターネット(Wi-Fi) 2000円 ※3人で分担 携帯電話 3000円 ※Y-mobile 食費  20,000円 雑費 8,000円~10,000円 ※衣類、教材、交通費など 毎月の差額・貯金 ▲2,000円~▲7,000円 ※長期休暇時のアルバイト料などで補てん ハローワークで就職活動 私は大学2年のときに2週間、3年のときに10日間、同じ酒造会社でインターンシップをさせていただき、焼酎づくりの基礎を学びました。社長からは就職の内々定をいただいていましたが、4年生の初めに事情が変わりました。この会社が買収され、経営者が変わったのです。私の内々定も立ち消えになり、私は周囲より遅れて6月から就職活動を始めることになりました。 大学生の多くは「マイナビ」サイトを使って就活をしますが、私は公的機関であるハローワークのサイトで求人を探しました。狙いは、歴史があって従業員の少ない酒造会社です。「歴史=技術力と信用」、「少人数=酒造技術を全般的に学べる」という観点でした。ネットで調べてから6月末ごろ、地元のハローワーク事務所に行って履歴書を提出し、4社に申し込みました。すると、1社は外国人を採用していませんでしたが、残り3社は面接をしてくれました。 大学で焼酎の造り方を研究。就職活動も酒造会社に絞って応募。 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 外国人留学生の採用面接では避けて通れない関門があります。「あなたはいつまで日本で働くつもりですか」という質問です。私は日本で学んだ技術をベトナムに持ち帰って起業することが夢です。このことを面接で話すべきかどうか、私は大学の研究室の先生に相談しました。先生は「目標があるのなら、正直に答えた方がよいのではないか」という意見で、私もそうすることにしました。 2020年7月に受けた3社の面接で、やはりどの社からもこのことを聞かれました。福岡県の焼酎メーカーの担当者はわざわざ宮崎まで来てくださり、よい雰囲気で面接が進みました。しかし、終盤にこの質問が出て正直に答えると、面接の雰囲気が変わり、採用してもらえませんでした。しかし、残り2社は、私が正直に答えたのに内々定をくれました。私はその中で宮崎県西都(さいと)市の岩倉酒造場という会社にお世話になることにしました。約160年の歴史がある会社です。現在、働き始めて1年経ちましたが、とても働きやすい職場です。 私が就職した岩倉酒造場〈2020年〉 ボランティア日本語教室を活用 私は技能実習で日本に来た翌年にJLPT・N3、3年目にN2を取得しました。仕事が終わってから家で毎日2、3時間勉強したほか、ボランティア日本語教室に通いました。最初は監理団体の通訳の紹介で岡山市内の教室に通いましたが、授業が難しすぎました。そこで、レベル別にクラスがある倉敷市の教室に移り、毎週日曜に2時間の無料授業を受けました。家の近くの駅から倉敷までは電車で片道約80分(往復の電車賃は約2,000円)かかりましたが、将来の財産になるので時間とお金をかけました。 技能実習2年目には、岡山県和気(わけ)町でも無料日本語教室を見つけ、倉敷の教室も続けながら毎週火曜の夜に授業を受けました。和気の教室の先生は年に数回、自宅に生徒数人を招いて食事会をしてくれました。ここで知り合ったベトナム人仲間とは、テト(旧正月)の食事会をするなど交流が深まりました。 和気町の日本語教室の先生の家で懇親会〈2013年〉 日本人女性と結婚 和気町の日本語教室の先生に私と年の近い女性がいました。この女性は勤務先の同僚のベトナム人が日本語を話せず困っている姿を見て、外国人に日本語を教えるボランティアに参加したそうです。女性はその後、仕事をやめてホーチミンに渡り、送出機関で2年間日本語を教えることになりました。同じころ、技能実習が終わってナムディンに戻っていた私は、SNS(メッセンジャー)でこの女性からのさまざまな相談に応じるようになりました。 私の留学2年目の2016年春、帰国して岡山に戻っていたこの女性が宮崎に遊びに来てくれました。すると、女性は宮崎の土地柄や気候が気に入ったと言って半年後に宮崎に引っ越して来て、私たちは付き合うようになりました。2019年11月、私たちはナムディンで約500人を招いて結婚式を挙げ、今年5月には子どもが生まれる予定です。将来は家族でナムディンで暮らす予定です。 故郷で結婚式〈2019年〉 宮崎のベトナム人コミュニティ 私は2020年11月にベトナム人仲間とボランティア日本語教室を立ち上げました。毎週日曜に交代で実習生やエンジニアに日本語を教え、普段の生活サポートも行います。日本人の先生もいます。また、宮崎県には現在、ベトナム人のサッカーチームが8チームあります。私のチームには技能実習生やエンジニア、留学生がいます。毎週日曜に河川敷で練習し、ときどきメンバーの自宅で食事会をします。 このように充実した日本生活を送っていますが、数年後にはベトナムに帰って小さな焼酎醸造所を立ち上げることが私の目標です。大好きな日本でまだまだ多くのことを学びたいと思っています。 ベトナム人のサッカーチーム(試合前の記念撮影)〈宮崎市内で2021年〉

    2021年04月09日

  • Vol. 57 N2取得し最初から大学に留学

    今回の先輩 ド・ミン・ハンさん 2014年 高校卒業 2014年 ナムディン日本語日本文化学院(8月) 2016年 ナムディン学院卒業(5月)、自習 2017年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2021年 南九州大学卒業(3月) 2021年 食品会社に就職(正社員)〈熊本県〉 〈1996年生まれ、ナムディン省出身〉 ベトナムで猛勉強してJLPT・N2を取得し、最初から大学で日本留学を始めたハンさん。訪日後はさらに日本語力を高め、日本での就職も決まった。ハンさんの日本語学習や就職活動について紹介する。 〈このページの内容〉 • ベトナムでJLPT・N2取得 • 最初から大学に留学 • 大学の授業は予習で乗り切る • 大学からのさまざまなサポート • 留学費用とアルバイト • 就職活動の流れ • 面接での受け答え • 日本で働くにあたって ベトナムでJLPT・N2取得 ナムディン学院の教室で〈2015年〉 ナムディン日本語日本文化学院 のロイ校長は私の親せきで、かねてロイ先生や父から「将来のために日本語を学習してはどうか」と勧められていました。私はベトナムの大学受験に失敗したこともあり、助言に従って日本語を勉強することにしました。 ナムディン学院には2014年8月~2016年5月に通い、2015年12月に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、翌年7月にはN2に合格しました。同校では、午前に授業を受け、自宅で昼食を食べたらまた登校して自習や運動をし、夕食後もまた学校に戻って自習しました。このようにして、授業以外に仲間と一緒に毎日6時間ぐらい自習しました。人生で一番勉強した時期で、先生方のご指導や仲間たちのお陰で続けられました。このときの努力がもとになって日本の大学に留学し日本で就職もできることになりました。 最初から大学に留学 日本に向かう際にノイバイ国際空港で〈2017年〉 私は宮崎県にある南九州大学・短大のナムディン事務所で小論文の試験とオンライン面接を受けて合格し、2017年4月に南九州大学で留学を始めました。日本語に囲まれて生活することで本物の日本語を身に付けることと日本で就職することが私の留学の目的です。しかし、最初は、日本人の話すスピードが速すぎて、あまり聞き取れませんでした。 ナムディン学院の先輩・後輩と食事会〈宮崎市内で2019年〉 私は菓子づくりが好きなので食品開発科学科を選びました。同じ年にナムディン学院から南九州大学に入学したのは私1人(短大には2人)でしたが、2年生と3年生に計3人の男子のナムディン学院卒業生がおり、3人で同じアパートに住んでいました。私は女子寮に住み、先輩たちのアパートに食事に招いてもらい、日本のことや勉強の仕方などをたくさん教えていただきました。寮では外国人は私だけでしたが、次第に寮の仲間とも仲良くなりました。 南九州大学・短大はナムディン学院と提携関係があり、大学・短大でのナムディン学院卒業生は計19人(2020年)いました。ほとんどが「後輩」ですが、ナムディン学院卒業生には、技能実習でお金を貯めてから再訪日して留学する人も多いので、「後輩」の中には私より年上の人もたくさんいました。 大学の授業は予習で乗り切る 大学の近くの公園で〈2017年4月〉 南九州大学での授業はすべて日本語で行われました。N2を取得して訪日しましたが、最初は、専門用語の多い授業は半分ぐらいしか理解できませんでした。私はこのままではだめだと思い、まず、授業の予習をていねいにやりました。先にテキストを読んで、分かる部分は頭に入れ、分からない日本語があれば調べました。そして、授業中に分からない言葉が出ればメモをして家で調べました。特に化学や微生物、発酵(はっこう)の授業では難しい言葉が多いので、予習も復習もしっかりやりました。ただし、日本語の力がついた3年生以降は復習だけで大丈夫でした。 日本語学習の教材はナムディン学院のオリジナルテキストと一般の動画(ドラもえん、ちびまる子ちゃん、ドラマ、ニュースなど)でした。動画は音も字幕も日本語のものが役に立ちました。 大学からのさまざまなサポート 南九州大学・短大のキャンパス〈2017年〉 日本での生活については、大学からのサポートもありました。日本では、外国人も含めて会社員は「厚生年金保険」に加入させられ、年金保険料を支払います。20歳以上の学生や自営業者は厚生年金保険ではなく「国民年金保険」に加入しなければなりません。しかし、学生については年金保険料の納付が猶予される「学生納付特例制度」があります。国民年金保険加入や特例制度の手続きを大学がサポートしてくれました。 南九州大学の学園祭〈2019年〉 2年生の終わりに寮からアパートに引っ越す際は、大学の職員の方々が荷物を運んでくれました。また、1年前からは、大学の学生支援課が卒業生からまだ使えそうな不要品を集め、それを必要とする留学生に分配する取り組みも始まりました。 研究室の先生(教授)も親切で、ある日「困っていることはないですか」と聞いてくれたので、アルバイト先での悩みや学費が重荷になっていることを話すと、やさしく励ましてくださいました。先生方と学生たちとの距離が近い大学で、学生1人1人へのケアが細かいと感じました。 留学費用とアルバイト 鹿児島県の水族館で〈2020年〉 南九州大学では、留学生の授業料は日本人の半額でした。半額での学費は入学金125,000円(約26,400,000ドン)、毎年の授業料589,000円(約124,200,000ドン)で、入学金と1年目の学費は訪日前に両親が大学に振り込んでくれました。また、大学生協とメールでやり取りをして住む家を決めてから訪日しました。 日本に来てからの主なアルバイト先は飲食店とスーパーでした。求人情報誌で回転寿司店や焼肉店に電話して面接を受けたり、友人(日本人、ベトナム人)の紹介で中華料理店やスーパーで勤務したりしました。焼肉店では日本人の友だちもでき、一緒に遊びに行ったり、私のアパートで食事会をしたりしました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年時の家計簿 ※100円=21,085ドン(2021年3月14日現在) 収入(合計90,000円~120,000円) アルバイト2件 90,000円~120,000円 ※飲食店、スーパー 支出(合計107,000円~119,000円) 家賃 25,000円 ※アパート、1人暮らし 授業料 50,000円 ※2年目から授業料も自己負担 水道・光熱費  6,000~8,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話など  6000円 ※格安SIMとモバイルWi-Fi 食費 15,000~20,000円 ※アルバイト先のスーパーが売れ残った惣菜をくれるときもある。 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨など 毎月の差額・貯金(平均 5,000円~10,000円) ※両親から1年間に50,000円~100,000円の仕送りを受けた。 ※夏休みや春休みのアルバイト収入は少し増える。 左:ナムディン学院の仲間と学院の理事長宅を訪問〈鹿児島で2018年〉;右:宮崎県内で観光〈2017年〉 就職活動の流れ マイナビの留学生向け求人サイト 就職活動については、大手人材会社「マイナビ」などの求人サイトで企業を探して会社説明会に参加し、自分に合うと思ったら履歴書を送りました。大学の就職課が履歴書の書き方の指導や面接練習をしてくれました。私は熊本県の食品製造販売会社に総合職として採用され、今年4月から働きます。九州各地に店舗を持つ大きな会社で、外国人技能実習生もたくさん働いています。私は約10社の説明会(オンラインを含む)に参加して4社の面接を受け、この会社に採用されました。 私が会社探しを始めたのは2020年1月、会社説明会へのエントリーを始めたのは2月、説明会は3~7月でした。新型コロナの影響で説明会が遅れた企業も多く、6~7月でも説明会はたくさんありました。面接などで福岡や大阪にも行ったので、就活に計約110,000円(約23,200,000ドン)かかりました。就職することになった会社については、3年生の終わりの2020年3月に熊本での説明会に参加し、同じ月に1回目の面接、5月に2回目の面接を受けました。説明会と最初の面接では、交通費の半分を会社が出してくれ、2回目の面接では全額出してくれました。宮崎から熊本へはバスによる移動(往復約10,000円)でした。 面接での受け答え 新型コロナの影響でオンライン面接も経験しました。明太子メーカーのオンライン面接では「当社にどうやって貢献できますか」と聞かれ、「売り上げアップに貢献します」と答えましたが、事前の準備不足で、どうやって売り上げアップを実現するかは説明できませんでした。この会社には採用してもらえませんでした。これはよく聞かれる質問なので、その会社の事業内容をよく調べて自分が実際にどのように貢献できるかをよく考え、答える練習をしてから面接に臨む方がよいと思います。 それ以外に面接で聞かれた主な事柄は、履歴書に書いたことや「入社したら何をがんばりたいか」「尊敬する人とその理由」などでした。 採用内定をいただいた会社の2次面接では、最初に自己PRがあり、私は履歴書に書いたことを中心に話しました。面接官からは、アルバイトのことと日本語学習のことを中心に質問されました。また、「最近気になったニュース」についても聞かれたので、新型コロナに関するベトナムの状況を話しました。 また、この会社の説明会では、自分の人生の浮き沈みを曲線で表し、それぞれの年に何があったのかを説明する場面がありました。参加者は十数人で1人の持ち時間は2分ぐらいです。私はベトナムの大学受験で落ちたことや、日本で日本人の友だちに助けられたことなどを話しました。 日本で働くにあたって 私の家族〈モックチャウで2015年〉 留学中は学費を工面するのが大変で、旅行にはほとんど行きませんでしたが、正社員になったら少し旅行もしたいと思っています。特に行きたいのは京都です。また、これからは学費を払わなくてもいいし給料も増えるので、ベトナムの両親にときどきお金を送りたいと思っています。 宮崎は人が親切で物価も安く、暮らしやすい町ですが、電車やバスが少なく交通が不便でした。今後は熊本県で働くので、大きな空港のある福岡に少し近くなります。日本で4年間暮らしてみて感じたことは、日本語を身に付ければ、日本で働く方が給料も高いですし、生活が便利で食べ物もおいしく、快適に暮らすことができます。今後、日本で何歳まで働くかはまだ決めていませんが、場合によってはずっと働き続けることも視野に入れて仕事に取り組んでいきたいと思います。 今回の先輩 (ド・ミン・ハン)さん 2014年 高校卒業 2014年 ナムディン日本語日本文化学院(8月) 2016年 ナムディン学院卒業(5月)、自習 2017年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2021年 南九州大学卒業(3月) 2021年 食品会社に就職(正社員)〈熊本県〉 〈1996年生まれ、ナムディン省出身〉 ベトナムで猛勉強してJLPT・N2を取得し、最初から大学で日本留学を始めたハンさん。訪日後はさらに日本語力を高め、日本での就職も決まった。ハンさんの日本語学習や就職活動について紹介する。 〈このページの内容〉 • ベトナムでJLPT・N2取得 • 最初から大学に留学 • 大学の授業は予習で乗り切る • 大学からのさまざまなサポート • 留学費用とアルバイト • 就職活動の流れ • 面接での受け答え • 日本で働くにあたって ベトナムでJLPT・N2取得 ナムディン日本語日本文化学院 のロイ校長は私の親せきで、かねてロイ先生や父から「将来のために日本語を学習してはどうか」と勧められていました。私はベトナムの大学受験に失敗したこともあり、助言に従って日本語を勉強することにしました。 ナムディン学院には2014年8月~2016年5月に通い、2015年12月に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、翌年7月にはN2に合格しました。同校では、午前に授業を受け、自宅で昼食を食べたらまた登校して自習や運動をし、夕食後もまた学校に戻って自習しました。このようにして、授業以外に仲間と一緒に毎日6時間ぐらい自習しました。人生で一番勉強した時期で、先生方のご指導や仲間たちのお陰で続けられました。このときの努力がもとになって日本の大学に留学し日本で就職もできることになりました。 ナムディン学院の教室で〈2015年 最初から大学に留学 私は宮崎県にある南九州大学・短大のナムディン事務所で小論文の試験とオンライン面接を受けて合格し、2017年4月に南九州大学で留学を始めました。日本語に囲まれて生活することで本物の日本語を身に付けることと日本で就職することが私の留学の目的です。しかし、最初は、日本人の話すスピードが速すぎて、あまり聞き取れませんでした。 日本に向かう際にノイバイ国際空港で〈2017年〉 私は菓子づくりが好きなので食品開発科学科を選びました。同じ年にナムディン学院から南九州大学に入学したのは私1人(短大には2人)でしたが、2年生と3年生に計3人の男子のナムディン学院卒業生がおり、3人で同じアパートに住んでいました。私は女子寮に住み、先輩たちのアパートに食事に招いてもらい、日本のことや勉強の仕方などをたくさん教えていただきました。寮では外国人は私だけでしたが、次第に寮の仲間とも仲良くなりました。 南九州大学・短大はナムディン学院と提携関係があり、大学・短大でのナムディン学院卒業生は計19人(2020年)いました。ほとんどが「後輩」ですが、ナムディン学院卒業生には、技能実習でお金を貯めてから再訪日して留学する人も多いので、「後輩」の中には私より年上の人もたくさんいました。 ナムディン学院の先輩・後輩と食事会〈宮崎市内で2019年〉 大学の授業は予習で乗り切る 南九州大学での授業はすべて日本語で行われました。N2を取得して訪日しましたが、最初は、専門用語の多い授業は半分ぐらいしか理解できませんでした。私はこのままではだめだと思い、まず、授業の予習をていねいにやりました。先にテキストを読んで、分かる部分は頭に入れ、分からない日本語があれば調べました。そして、授業中に分からない言葉が出ればメモをして家で調べました。特に化学や微生物、発酵(はっこう)の授業では難しい言葉が多いので、予習も復習もしっかりやりました。ただし、日本語の力がついた3年生以降は復習だけで大丈夫でした。 日本語学習の教材はナムディン学院のオリジナルテキストと一般の動画(ドラもえん、ちびまる子ちゃん、ドラマ、ニュースなど)でした。動画は音も字幕も日本語のものが役に立ちました。 大学の近くの公園で〈2017年4月〉 大学からのさまざまなサポート 日本での生活については、大学からのサポートもありました。日本では、外国人も含めて会社員は「厚生年金保険」に加入させられ、年金保険料を支払います。20歳以上の学生や自営業者は厚生年金保険ではなく「国民年金保険」に加入しなければなりません。しかし、学生については年金保険料の納付が猶予される「学生納付特例制度」があります。国民年金保険加入や特例制度の手続きを大学がサポートしてくれました。 南九州大学・短大のキャンパス〈2017年〉 2年生の終わりに寮からアパートに引っ越す際は、大学の職員の方々が荷物を運んでくれました。また、1年前からは、大学の学生支援課が卒業生からまだ使えそうな不要品を集め、それを必要とする留学生に分配する取り組みも始まりました。 研究室の先生(教授)も親切で、ある日「困っていることはないですか」と聞いてくれたので、アルバイト先での悩みや学費が重荷になっていることを話すと、やさしく励ましてくださいました。先生方と学生たちとの距離が近い大学で、学生1人1人へのケアが細かいと感じました。 南九州大学の学園祭〈2019年〉 留学費用とアルバイト 南九州大学では、留学生の授業料は日本人の半額でした。半額での学費は入学金125,000円(約26,400,000ドン)、毎年の授業料589,000円(約124,200,000ドン)で、入学金と1年目の学費は訪日前に両親が大学に振り込んでくれました。また、大学生協とメールでやり取りをして住む家を決めてから訪日しました。 日本に来てからの主なアルバイト先は飲食店とスーパーでした。求人情報誌で回転寿司店や焼肉店に電話して面接を受けたり、友人(日本人、ベトナム人)の紹介で中華料理店やスーパーで勤務したりしました。焼肉店では日本人の友だちもでき、一緒に遊びに行ったり、私のアパートで食事会をしたりしました。 鹿児島県の水族館で〈2020年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年時の家計簿 ※100円=21,085ドン(2021年3月14日現在) 収入(合計90,000円~120,000円) アルバイト2件 90,000円~120,000円 ※飲食店、スーパー 支出(合計107,000円~119,000円) 家賃 25,000円 ※アパート、1人暮らし 授業料 50,000円 ※2年目から授業料も自己負担 水道・光熱費  6,000~8,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話など  6000円 ※格安SIMとモバイルWi-Fi 食費 15,000~20,000円 ※アルバイト先のスーパーが売れ残った惣菜をくれるときもある。 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨など 毎月の差額・貯金(平均 5,000円~10,000円) ※両親から1年間に50,000円~100,000円の仕送りを受けた。 ※夏休みや春休みのアルバイト収入は少し増える。 左:ナムディン学院の仲間と学院の理事長宅を訪問〈鹿児島で2018年〉;右:宮崎県内で観光〈2017年〉 就職活動の流れ 就職活動については、大手人材会社「マイナビ」などの求人サイトで企業を探して会社説明会に参加し、自分に合うと思ったら履歴書を送りました。大学の就職課が履歴書の書き方の指導や面接練習をしてくれました。私は熊本県の食品製造販売会社に総合職として採用され、今年4月から働きます。九州各地に店舗を持つ大きな会社で、外国人技能実習生もたくさん働いています。私は約10社の説明会(オンラインを含む)に参加して4社の面接を受け、この会社に採用されました。 私が会社探しを始めたのは2020年1月、会社説明会へのエントリーを始めたのは2月、説明会は3~7月でした。新型コロナの影響で説明会が遅れた企業も多く、6~7月でも説明会はたくさんありました。面接などで福岡や大阪にも行ったので、就活に計約110,000円(約23,200,000ドン)かかりました。就職することになった会社については、3年生の終わりの2020年3月に熊本での説明会に参加し、同じ月に1回目の面接、5月に2回目の面接を受けました。説明会と最初の面接では、交通費の半分を会社が出してくれ、2回目の面接では全額出してくれました。宮崎から熊本へはバスによる移動(往復約10,000円)でした。 マイナビの留学生向け求人サイト 面接での受け答え 新型コロナの影響でオンライン面接も経験しました。明太子メーカーのオンライン面接では「当社にどうやって貢献できますか」と聞かれ、「売り上げアップに貢献します」と答えましたが、事前の準備不足で、どうやって売り上げアップを実現するかは説明できませんでした。この会社には採用してもらえませんでした。これはよく聞かれる質問なので、その会社の事業内容をよく調べて自分が実際にどのように貢献できるかをよく考え、答える練習をしてから面接に臨む方がよいと思います。 それ以外に面接で聞かれた主な事柄は、履歴書に書いたことや「入社したら何をがんばりたいか」「尊敬する人とその理由」などでした。 採用内定をいただいた会社の2次面接では、最初に自己PRがあり、私は履歴書に書いたことを中心に話しました。面接官からは、アルバイトのことと日本語学習のことを中心に質問されました。また、「最近気になったニュース」についても聞かれたので、新型コロナに関するベトナムの状況を話しました。 また、この会社の説明会では、自分の人生の浮き沈みを曲線で表し、それぞれの年に何があったのかを説明する場面がありました。参加者は十数人で1人の持ち時間は2分ぐらいです。私はベトナムの大学受験で落ちたことや、日本で日本人の友だちに助けられたことなどを話しました。 日本で働くにあたって 留学中は学費を工面するのが大変で、旅行にはほとんど行きませんでしたが、正社員になったら少し旅行もしたいと思っています。特に行きたいのは京都です。また、これからは学費を払わなくてもいいし給料も増えるので、ベトナムの両親にときどきお金を送りたいと思っています。 宮崎は人が親切で物価も安く、暮らしやすい町ですが、電車やバスが少なく交通が不便でした。今後は熊本県で働くので、大きな空港のある福岡に少し近くなります。日本で4年間暮らしてみて感じたことは、日本語を身に付ければ、日本で働く方が給料も高いですし、生活が便利で食べ物もおいしく、快適に暮らすことができます。今後、日本で何歳まで働くかはまだ決めていませんが、場合によってはずっと働き続けることも視野に入れて仕事に取り組んでいきたいと思います。 私の家族〈モックチャウで2015年〉

    2021年04月02日

  • Vol. 55 ベトナム人初の「ゴールド」

    今回の先輩  グエン・バー・フックさん 2012年  焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年  短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年  日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年  訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年  調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年  専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年  新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年  寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 「ゴールド」に認定〈2021年〉 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 ベトナムの調理師資格取得 短大での実習と当時の私の料理 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 日本語学習の工夫 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後はなるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 北海道函館市で過ごした日々 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) vol55_img12_17_3_2021 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮) 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 就職、転職、新型コロナ 北海道のホテルでの仕事 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 今後はベトナムで活動 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉 今回の先輩  Nguyễn Bá Phước(グエン・バー・フック)さん 2012年 焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年  短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年  日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年  訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年  調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年  専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年  新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年  寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 「ゴールド」に認定〈2021年〉 ベトナムの調理師資格取得 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 短大での実習と当時の私の料理 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 日本語学習の工夫 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後は北海道函館市で過ごした日々なるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 北海道函館市で過ごした日々 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 就職、転職、新型コロナ 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 北海道のホテルでの仕事 今後はベトナムで活動 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉

    2021年03月26日

  • Vol. 53 地域医療への貢献約束に奨学金

    今回の先輩 ルー・ホン・ゴックさん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業  2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年 盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年  秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈このページの内容〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 日本を選んだ理由 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 好条件の奨学金 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 留学準備(日本語) 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 大学医学部合格への道 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 医学部での取り組み 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 大学の仲間 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 地域貢献のやりがい 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉 今回の先輩 Luu Hong Ngoc(ルー・ホン・ゴック)さん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業  2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年  盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年  秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈Nội dung bài viết〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 日本を選んだ理由 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 好条件の奨学金 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 留学準備(日本語) 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 大学医学部合格への道 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 医学部での取り組み 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 大学の仲間 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 地域貢献のやりがい 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉

    2021年03月15日

  • Vol. 51 国際交流グループで友だちづくり

    今回の先輩 グエン・ティエン・タムさん 2009年高校卒業〈タイビン県〉 2009年農業〈ダクノン県〉 2010年徴兵(3年) 2012年農業〈ダクノン県〉 2014年大学入学〈ハノイ〉 2017年日本語センターで学習〈ハノイ〉 2017年日本語学校入学 /10月〈仙台市〉 2019年専門学校入学〈仙台市〉 2020年SGモータース就職内定(2021年4月から正社員) 〈1991年生まれ、タイビン省出身〉 日本で国際ボランティア団体などに参加し、日本語でたくさんの交流を重ねてきた留学生・タムさん。交流を通じて日本語も上達し、人脈も広がり、日本での就職もすんなり決まった。 〈このページの内容〉 • 社会人になってから日本留学 • 留学の費用 • 日本語学校から専門学校へ • アルバイト先の工場に就職内定 • ベトナム人コミュニティ • 国際交流 • 普段の生活と生活費 • 後輩へのアドバイス 社会人になってから日本留学 私の両親は私が10歳のときからダクノン省でコーヒーとコショウを栽培しており、年収は約400,000,000ドン(約183万円)です。私は弟や祖父母と生まれ故郷のタイビン省で育ち、高校卒業後は、徴兵に応じたり両親や親せきの農園を手伝ったりしたほか、大学にも行きましたが、中退しました。そんなある日、母が私の将来を考えて日本留学を勧めてくれたので、日本に行くことにしました。 こうして私は26歳のときにハノイの留学あっせん会社に依頼し、仙台の日本語学校を紹介してもらいました。ハノイでの日本語学習は4カ月間だけで、訪日直後は、日本人の話すことをほとんど理解できませんでした。 留学の費用 日本語学校で〈2019年3月〉 留学あっせん会社には計100,000,000ドン(約46万円)を払いました。ここには、授業料やキャンプ参加費、在留資格申請費、寮費、日本への飛行機代などが含まれています。また、在留資格を取得後、仙台の日本語学校の授業料1年分(約60万円=約132,000,000ドン)を追加で支払いました。 3年半の留学のために両親から出してもらった費用は全部で約600,000,000ドン(約275万円)で、私は日本で就職してから返すつもりです。 ※100円=21,910 VND(2021年2月15日現在) 日本語学校を卒業して専門学校へ 自動車整備の専門学校 私は2017年10月に訪日し、日本語学校に1年半通い、2019年4月に自動車整備の勉強をするために同じ仙台市内の専門学校に入りました。専門学校は2年間で、入学金12万円、1年分の授業料は72万円です。卒業前に自動車整備士(2級)の国家試験があるので、現在、受験勉強を続けています。 アルバイト先の会社に就職内定 SGモータースでの休憩時間〈2018年〉 自動車整備士になることを決めたのは、仙台の自動車整備工場でアルバイトして、この仕事が気に入ったからです。アルバイト先は、ハノイの留学あっせん会社の幹部が紹介してくれた「SGモータース仙台店」です。幹部も仙台で留学経験があり、同店にコネがあったのです。 ハノイでの同期生は十数人ですが、日本語の成績の良かった私を含む4人だけが訪日前にSGモータースを紹介してもらえました。そのときに、幹部から「アルバイト先でまじめにやれば、卒業後に正社員になれる可能性がある」と聞かされていました。 バイト先へ仲間と自転車通勤〈2018年〉 SGモータースでは、自動車修理や整備の準備作業や掃除などを担当しています。国家資格を取得すれば、私も整備を担当できるようになります。勤務は月~金曜の18:00から5時間。夏休みでも勤務時間を増やしてもらえないのが残念ですが、お金は正社員になってから稼げばいいと考えています。 私と一緒にここで働いていた同期3人のうち2人はベトナムで大学を出ているので2020年4月に先に正社員になりました。私も2020年3月に試験と面接を受けて内定をいただきました。日本各地に工場を持つ会社なので、東京から来た面接官の面接を受けましたが、面接の日本語も問題なくこなせました。 ベトナム人コミュニティ 左:VYSAが協力した国際交流イベント〈宮城県で2018年〉, 右:VYSAの仲間数人で福島県にドライブ〈2018年〉 私は日本で様々な活動に参加しました。それによって仲間も増え、日本語の実践練習にもなりました。外国語は実生活で使うと格段に上達しますし、生活も充実します。ベトナム人コミュニティと国際交流に分けて紹介します。 【VYSA】 在日ベトナム学生青年協会。各地に支部があり、私はFacebookでVYSA仙台を知りました。仲の良かったリーダーが就職して東京に行ってからはあまり参加していませんが、以前は、イベントを手伝ったり、メンバーで旅行に行ったりしました。 Sen TVA主催のテトのイベント〈仙台市で2020年〉 【Sen TVA】 在仙台ベトナム人協会。日本各地のベトナム人協会の中でも特に活発に活動している団体です。私も以前、テト(旧正月)のイベントなどに参加しました。 これ以外に、ハノイの日本語センターの同期や日本の日本語学校、専門学校の仲間とも食事会をしたり、観光を楽しんだりしています。 国際交流 「心の港」のオフィスで食事会。共通言語は日本語か英語〈仙台市内で2018年〉 訪日直後は、日本人の話す言葉がほとんど分かりませんでしたが、国際交流活動で多くの日本人と知り合い、日本語力が上がりました。また、日本人の友だちができると、自分や友人が困っているときに相談に乗ってもらえるようになりました。 【Sing for Joy / 心の港】 2018年に仙台にできたカトリックのボランティア団体で、ベトナム人、カナダ人、フィリピン人、インドネシア人、日本人など約50人が参加しています。毎月1、2回、十数人で老人ホームに出向き、お年寄りと交流したり歌を歌ったりします。毎週水曜にミーティングがあり、菓子をたべながら英語や日本語で話し合います。カトリックの別のボランティア国際グループ「心の港」にも参加しています。 ベトアジで知り合った日本人たちと今も交流〈別の料理教室で2020年〉 【ベトアジなど】 ベトアジは「ベトナムの味」という意味で、日本各地にあるチャリティー・ベトナム料理教室です。スタッフが様々な国籍の参加者にベトナム料理を教えます。私はここで出会った日本人とも友だちになり、交流しています。 また、SGモータースでも休憩時間に日本人も含めて数人でおしゃべりをします。このように、生活の様々な場面で日本語での交流を重ね、日本語が上達しました。日本に来る前は、日本語がこんなに話せるようになるとは思っていませんでした。 普段の生活と生活費 私の部屋と近所の川原で採取した食用の草 私は歌うのが好きで、休日には歌の練習をしています。ベトナム語のポップやロック、バラードのほか、日本語の歌も少し歌います。アパートから専門学校までは自転車で約30分。学校が終わると、いったん帰宅して夕飯を食べ、再び自転車で約20分かけてSGモータースに行きます。 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校1年目の家計簿※100円=21,910 VND(2021年2月15日現在) 収入(合計75,000円~85,000円) アルバイト1件 75,000 円~85,000円 支出(合計70,000円) 家賃 29,500円 ※水道代2,500円(固定)を含む ※一人暮らし(ワンルーム) 光熱費 3,000円 ※電気・ガスの合計 携帯電話 3,200円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※自炊 雑費 15,000円 ※食事会、友人の誕生日など 差額・貯金(10,000円) 貯金 10,000円 ※これ以外に授業料720,000円(1年分)は両親が負担 仙台市郊外の港 専門学校の近くで 後輩へのアドバイス 左:仙台駅 , 右:仙台市内の商店街 私は日本で正社員になったら、両親にお金を送り、もっと旅行もするつもりです。そして、ベトナムでもこれから乗用車が増えていくので、いつか、ベトナムで自分の自動車整備工場を開くのが夢です。 留学生にとってお金は生命線ですが、アルバイトだけで授業料と生活費の両方をまかなうのは困難です。東北など授業料や家賃の安い地方都市に住んで、部屋もシェアすれば、授業料も含めて毎月10万円前後で生活できる可能性もあります。しかし、東京だと、アルバイトの時給も高いですが、授業料や家賃も高いので、かなり苦しいのではないでしょうか。 私のように就職してから返済する計画なら、学生時代にいろいろな体験をできて財産になります。これから日本に留学する人には様々な活動に参加していただければ幸いです。そうすれば、日本に早くなじみ、日本語のレベルも上がると思います。 今回の先輩 Nguyễn Tiến Tâm(グエン・ティエン・タム)さん 2009年高校卒業〈タイビン〉 2009年農業〈ダクノン〉 2010年徴兵(3年) 2012年農業〈ダクノン〉 2014年大学入学〈ハノイ〉 2017年日本語センターで学習〈ハノイ〉 2017年日本語学校入学 /10月〈仙台〉 2019年専門学校入学〈仙台〉 2020年SGモータース就職内定(2021年4月から正社員) 〈1991年生まれ、タイビン省出身〉 日本で国際ボランティア団体などに参加し、日本語でたくさんの交流を重ねてきた留学生・タムさん。交流を通じて日本語も上達し、人脈も広がり、日本での就職もすんなり決まった。 〈このページの内容〉 • 社会人になってから日本留学 • 留学の費用 • 日本語学校から専門学校へ • アルバイト先の工場に就職内定 • ベトナム人コミュニティ • 国際交流 • 普段の生活と生活費 • 後輩へのアドバイス 社会人になってから日本留学 私の両親は私が10歳のときからダクノン省でコーヒーとコショウを栽培しており、年収は約400,000,000ドン(約183万円)です。私は弟や祖父母と生まれ故郷のタイビン省で育ち、高校卒業後は、徴兵に応じたり両親や親せきの農園を手伝ったりしたほか、大学にも行きましたが、中退しました。そんなある日、母が私の将来を考えて日本留学を勧めてくれたので、日本に行くことにしました。 こうして私は26歳のときにハノイの留学あっせん会社に依頼し、仙台の日本語学校を紹介してもらいました。ハノイでの日本語学習は4カ月間だけで、訪日直後は、日本人の話すことをほとんど理解できませんでした。 留学の費用 留学あっせん会社には計100,000,000ドン(約46万円)を払いました。ここには、授業料やキャンプ参加費、在留資格申請費、寮費、日本への飛行機代などが含まれています。また、在留資格を取得後、仙台の日本語学校の授業料1年分(約60万円=約132,000,000ドン)を追加で支払いました。 3年半の留学のために両親から出してもらった費用は全部で約600,000,000ドン(約275万円)で、私は日本で就職してから返すつもりです。 ※100円=21,910 VND(2021年2月15日現在) 日本語学校で〈2019年3月〉 日本語学校を卒業して専門学校へ 私は2017年10月に訪日し、日本語学校に1年半通い、2019年4月に自動車整備の勉強をするために同じ仙台市内の専門学校に入りました。専門学校は2年間で、入学金12万円、1年分の授業料は72万円です。卒業前に自動車整備士(2級)の国家試験があるので、現在、受験勉強を続けています。 自動車整備の専門学校 アルバイト先の会社に就職内定 自動車整備士になることを決めたのは、仙台の自動車整備工場でアルバイトして、この仕事が気に入ったからです。アルバイト先は、ハノイの留学あっせん会社の幹部が紹介してくれた「SGモータース仙台店」です。幹部も仙台で留学経験があり、同店にコネがあったのです。 ハノイでの同期生は十数人ですが、日本語の成績の良かった私を含む4人だけが訪日前にSGモータースを紹介してもらえました。そのときに、幹部から「アルバイト先でまじめにやれば、卒業後に正社員になれる可能性がある」と聞かされていました。 SGモータースでの休憩時間〈2018年〉 SGモータースでは、自動車修理や整備の準備作業や掃除などを担当しています。国家資格を取得すれば、私も整備を担当できるようになります。勤務は月~金曜の18:00から5時間。夏休みでも勤務時間を増やしてもらえないのが残念ですが、お金は正社員になってから稼げばいいと考えています。 私と一緒にここで働いていた同期3人のうち2人はベトナムで大学を出ているので2020年4月に先に正社員になりました。私も2020年3月に試験と面接を受けて内定をいただきました。日本各地に工場を持つ会社なので、東京から来た面接官の面接を受けましたが、面接の日本語も問題なくこなせました。 バイト先へ仲間と自転車通勤〈2018年〉 ベトナム人コミュニティ 私は日本で様々な活動に参加しました。それによって仲間も増え、日本語の実践練習にもなりました。外国語は実生活で使うと格段に上達しますし、生活も充実します。ベトナム人コミュニティと国際交流に分けて紹介します。 【VYSA】 在日ベトナム学生青年協会。各地に支部があり、私はFacebookでVYSA仙台を知りました。仲の良かったリーダーが就職して東京に行ってからはあまり参加していませんが、以前は、イベントを手伝ったり、メンバーで旅行に行ったりしました。 左:VYSAが協力した国際交流イベント〈宮城県で2018年〉, 右:VYSAの仲間数人で福島県にドライブ〈2018年〉 【Sen TVA】 在仙台ベトナム人協会。日本各地のベトナム人協会の中でも特に活発に活動している団体です。私も以前、テト(旧正月)のイベントなどに参加しました。 これ以外に、ハノイの日本語センターの同期や日本の日本語学校、専門学校の仲間とも食事会をしたり、観光を楽しんだりしています。 Sen TVA主催のテトのイベント〈仙台市で2020年〉 国際交流 訪日直後は、日本人の話す言葉がほとんど分かりませんでしたが、国際交流活動で多くの日本人と知り合い、日本語力が上がりました。また、日本人の友だちができると、自分や友人が困っているときに相談に乗ってもらえるようになりました。 【Sing for Joy / 心の港】 2018年に仙台にできたカトリックのボランティア団体で、ベトナム人、カナダ人、フィリピン人、インドネシア人、日本人など約50人が参加しています。毎月1、2回、十数人で老人ホームに出向き、お年寄りと交流したり歌を歌ったりします。毎週水曜にミーティングがあり、菓子をたべながら英語や日本語で話し合います。カトリックの別のボランティア国際グループ「心の港」にも参加しています。 「心の港」のオフィスで食事会。共通言語は日本語か英語〈仙台市内で2018年〉 【ベトアジなど】 ベトアジは「ベトナムの味」という意味で、日本各地にあるチャリティー・ベトナム料理教室です。スタッフが様々な国籍の参加者にベトナム料理を教えます。私はここで出会った日本人とも友だちになり、交流しています。 また、SGモータースでも休憩時間に日本人も含めて数人でおしゃべりをします。このように、生活の様々な場面で日本語での交流を重ね、日本語が上達しました。日本に来る前は、日本語がこんなに話せるようになるとは思っていませんでした。 ベトアジで知り合った日本人たちと今も交流〈別の料理教室で2020年〉 普段の生活と生活費 私は歌うのが好きで、休日には歌の練習をしています。ベトナム語のポップやロック、バラードのほか、日本語の歌も少し歌います。アパートから専門学校までは自転車で約30分。学校が終わると、いったん帰宅して夕飯を食べ、再び自転車で約20分かけてSGモータースに行きます。 私の部屋と近所の川原で採取した食用の草 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校1年目の家計簿 ※100円=21,910 VND(2021年2月15日現在) 収入(合計75,000円~85,000円) アルバイト1件 75,000 円~85,000円 支出(合計70,000円) 家賃 29,500円 ※水道代2,500円(固定)を含む ※一人暮らし(ワンルーム) 光熱費 3,000円 ※電気・ガスの合計 携帯電話 3,200円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※自炊 雑費 15,000円 ※食事会、友人の誕生日など 差額・貯金(10,000円) 貯金 10,000円 ※これ以外に授業料720,000円(1年分)は両親が負担 仙台市郊外の港 専門学校の近くで 後輩へのアドバイス 私は日本で正社員になったら、両親にお金を送り、もっと旅行もするつもりです。そして、ベトナムでもこれから乗用車が増えていくので、いつか、ベトナムで自分の自動車整備工場を開くのが夢です。 留学生にとってお金は生命線ですが、アルバイトだけで授業料と生活費の両方をまかなうのは困難です。東北など授業料や家賃の安い地方都市に住んで、部屋もシェアすれば、授業料も含めて毎月10万円前後で生活できる可能性もあります。しかし、東京だと、アルバイトの時給も高いですが、授業料や家賃も高いので、かなり苦しいのではないでしょうか。 私のように就職してから返済する計画なら、学生時代にいろいろな体験をできて財産になります。これから日本に留学する人には様々な活動に参加していただければ幸いです。そうすれば、日本に早くなじみ、日本語のレベルも上がると思います。 左:仙台駅 , 右:仙台市内の商店街

    2021年02月26日

  • Vol. 49 日本で留学後に起業

    今回の先輩 レ・ヴァン・タンさん 2011年レティファ高校卒業〈ラムドン県〉 2011年ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2012年盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科入学 2014年大阪YMCA日本語学校進学準備コース入学 2015年茨城大学工学部入学 2019年茨城大学卒業 2019年株式会社越設立〈茨城県〉 〈1993年生まれ、ラムドン省出身〉 日本での大学時代に通訳のアルバイトをたくさん経験したタンさん。通訳業務を通じてできた人脈や知識を活かして大学卒業と同時に会社を設立し、ベトナム料理店を開店した。就職せず起業するに至ったプロセスを紹介する。 〈このページの内容〉 • 一流大学に合格、選んだのはドンズー • 日本の日本語学校の選び方 • アルバイト面接を確実に受ける方法 • 人生を変えた通訳アルバイト • 取り調べ通訳 • ベトナム人コミュニティ • 最小費用でベトナム料理店開店 •留学生時代の生活費 一流大学に合格、選んだのはドンズー ドンズー日本語学校の後輩たちと〈ホーチミン市で2012年〉 高校3年のときに学校の留学説明会でドンズー日本語学校のことを聞きました。米国留学には莫大な費用がかかりますが、ドンズーから日本に留学する場合、「訪日前の費用はあまりかからず、訪日後も、米国より授業料が安く、生活費もアルバイトである程度まかなえる」とのことでした。先生からドンズー出身の実業家も紹介してもらい、その人に会って話も聞きました。 私はホーチミン自然科学大学 (Trường Đại học Khoa học Tự nhiên - Đại học Quốc Gia TP.HCM)にも合格しましたが、ドンズーに進みました。ドンズーでは、留学後の心構えとして「お金を稼ぐのは社会人になってから。学生の間は勉強中心」と教えられました。 日本の日本語学校の選び方 大阪YMCAでベトナム人仲間と〈2015年〉 ドンズーで1年間勉強し、2012年10月に岩手県盛岡市の日本語学校に入りました。ここで1年半学んで秋田大学を受験しましたが、不合格。そこで、大阪YMCA日本語学校で浪人生活を送りました。 大阪YMCAに転校した理由は、ベトナム人の少ない環境で勉強したかったのと、日本語以外の授業も充実していたからでした。盛岡ではクラス11人中9人がドンズー生で、アパートにもドンズー生が18人固まって住んでいました。一方、大阪では留学生40人のうちベトナム人は6人で、クラスメートとの共通言語が日本語になりました。また、大阪では数学、化学、物理の授業も充実していました。1年後、私は3つの国立大学に合格し、茨城大に進みました。 アルバイト面接を確実に受ける方法 盛岡でのアルバイトは主に新聞配達でした。午前3時に起きて自転車で300部を配ります。夏は1時間15分で終わりますが、冬(11月~3月)の雪の日は路面が凍り、自転車がすべって転倒するので大変でした。転倒して新聞が路面に散らばってぬれると、店に新しい新聞を取りに帰ります。このため、雪の日の配達は平均3時間かかりました。しかも、盛岡の朝は寒く-15℃の日もありました。 新聞配達には会話がなく、周りに気をつかわない点は楽ですが、日本語も上達しません。そこで、大阪では人と接するバイトを探し、牛丼店とコンビニで働きました。牛丼店は先輩からの紹介で、コンビニについては独自の方法で採用してもらいました。その方法を紹介します。 大学の学園祭(フォー店)の準備。アルバイトも学校生活も充実〈2016年〉 まず、写真付きの履歴書や在留カードのコピー(両面)などの必要な書類をしっかり準備した上で、「アルバイト募集」のはり紙がある店にアポなしで入り、店長らしい人を探して声をかけます。「はり紙を見ました。アルバイトをさせていただけませんか?」。たいていは「履歴書を郵送してください」と言われますが、その場で履歴書などを渡せると、良い印象を与えられて、そのまま面接をしてもらえる場合があります。そして、採用してくれる確率も高くなると思います。 私はこの方法で、大阪でコンビニに採用され、茨城でもロッテリアとコンビニに採用されました。ロッテリアの場合は、求人情報誌で募集を知ったのに、電話をせず店に直接行って採用されました。当時、留学生仲間は求人情報誌を見て電話をかけまくるのが通常でしたが、その場合は「100件電話して10件面接、1件合格」が相場でした。 人生を変えた通訳アルバイト 観光ガイドの仕事で観光客たちを迎えに関西空港へ〈2014年〉 大阪では観光ガイドもしました。大阪・京都・神戸の観光地や店でベトナム人観光客のガイド兼通訳をしたのです。旅行会社に勤めるドンズーの先輩からの依頼で、茨城に移ってからも東京などの案内をしました。 観光ガイドで通訳をかじった私は大学2年のときにもう少し本格的な通訳を始めました。最初は、大学の先輩ベトナム人の紹介で、大きなホテルでのバイトでした。このホテルにはベトナムからの団体客も多く、朝食時に通訳兼ウェイターが必要だったのです。場所が遠いので1年半でやめましたが、通訳の手始めとして最適でした。 また、この年には留学生の就職支援をする会社でも働きました。その仕事を通じて茨城県庁や茨城県観光物産協会などの方々と知り合い、役所などの公的機関から通訳の依頼を受けるようになりました。例えば、ベトナムから茨城県にバイヤーを招いて酒造会社の見学会を行うといった場合、朝から晩まで通訳をします。報酬は1日30,000円~40,000円になることもあります(安い仕事もあります)。そして、見学会後に企業間の個別取引が始まると、メールや書類の翻訳、打ち合わせの通訳などを企業から依頼されることもありました。 開始年 終了年 通訳などのアルバイト 報酬・謝礼 2014 2016 観光ガイド 20,000円以上/日 2015 2016 ホテルでの通訳 1,500円/h 2015 2016 技能実習生への日本語講習 10,000円~15,000円 / 日 2015 継続中 ビジネス関連の見学会、商談、行政の会議など(公的機関や企業からの依頼) 最高40,000円/日(安い仕事もある) 2016 継続中 警察などの通訳 6,300~6,600円 / h※遠隔地の場合は交通費も 2017 2018 法律関係書類やビジネス書類、広告などの翻訳 内容次第 コン・フォン選手の通訳も担当〈2016年〉 こうしてビジネス現場に関わるようになった私はビジネスに興味を持ち、ビジネスの勉強会にも参加するようになりました。そこで知り合った経営者たちの影響を受け、卒業と同時に起業する大きなきっかけになりました。 ちなみに、「ベトナムのメッシ」と呼ばれるサッカーのベトナム代表、グエン・コン・フォン選手が2016年に茨城県内のプロサッカーチームでプレーした際には、インタビューなどで十数回、彼の通訳を担当しました。県庁関係者の紹介でチームから依頼された仕事でした。 取り調べ通訳 県庁の仕事以外に、大学の先輩の紹介で茨城県警や水戸地方検察庁の通訳もしました。在留ベトナム人が増え、残念なことにベトナム人の犯罪も増えました。ベトナム人が逮捕されて警察や検察の取り調べを受ける際、通訳が必要です。担当した中で一番多いのはオーバーステイで、次は万引きです。 ある殺人事件では容疑者や参考人が多く、5人で通訳を分担しました。この事件では、取り調べが1日8時間に及ぶこともざらでした。取り調べ通訳は普通の通訳の何倍も疲れるので、8時間もやるとくたくたです。また、深夜や早朝の通訳もあります。容疑者が夜に逮捕されると、深夜に警察に呼び出されて通訳をします。また、容疑者を早朝に任意同行したり逮捕したりする場合、夜明け前に容疑者宅付近に集まり、夜が明けてから逮捕するのが通例です。捜査官が相手に氏名を確認したり逮捕の理由を伝えたりする際に通訳が必要です。 ベトナム人コミュニティ 私の店で行った無料相談会(左から相談者、私、弁護士)〈2020年10月〉 大学時代、Facebookグループで地元ベトナム人を集めて一緒に遊びに行ったり、監理団体のアルバイトで知り合った技能実習生から困りごとの相談に乗ったりするなど、地域のベトナム人コミュニティへの関与を心がけました。そんな中、2019年に筑波大学医学部のカン准教授から持ちかけられ、一緒に茨城県ベトナム人協会の設立を準備しました。協会の最初のイベントは2020年1月のテト(旧正月)の祝賀会で、約200人が参加しました。この年の主な活動は以下の通りです。 ・Facebookで新型コロナなどの情報を発信 ・新型コロナで生活に困っているベトナム人への食料支援 ・写真撮影大会 ・サッカー大会(約20チーム参加、2回) ・バレーボール大会(8チーム参加) ・弁護士を招いて無料相談会(7月~12月に計6回) 最小費用でベトナム料理店開店 ベトナム料理店123Dzô〈2020年〉 ビジネス勉強会で親しくなった経営者には飲食業界の人も多く、影響を受けました。また、専門学校や大学の学園祭で提供したベトナム料理が人気だったこともあり、ベトナム料理店の経営が私の目標になりました。そこで、大学3年だった2017年から、日本人と結婚しているベトナム人女性が立ち上げたフォー店の運営をサポートし、レシピを作ったりチラシを配ったりしました。 2019年に女性は家庭の事情で経営から退き、この年に大学を卒業した私が店を継ぎました。私は店の運営会社を設立して同年8月、店を別の場所に移してベトナム料理店「123Dzô(モッハイバーヨー)」を開きました。場所はJR水戸駅から約1㌔の幹線沿いで、店名はベトナムでの乾杯のかけ声です。 店内ではベトナムの食品や調味料も販売 店舗は2階建ての一軒家です。前のテナントの居酒屋が残していった備品があり、次のようなコストが浮きました。 ・業務用エアコン3台(新規購入なら400万円以上) ・料理を1階から2階に上げる機械(同300万円以上) ・業務用冷蔵庫 ・業務用冷凍庫 ・厨房設備一式 また、私は日曜大工が好きなので、内装も自前でやりました。1人でできない部分は、教え子の技能実習生たちが手伝ってくれました。こうして、一からそろえると約6,000万円かかる店の準備費が計数十万円で済みました。経営は順調で、お客さんは日本人とベトナム人が半々です。将来は、営利度外視の日本語学校を日本で設立し、多くのベトナム人留学生を大学に進学させるのが夢です。 留学生時代の生活費 大学4年のときに勤務先のフォー店で知り合った妻と結婚〈水戸市で2019年〉 最後に私の留学時代の生活費について紹介します。 ◎学費 ・大阪の専門学校:入学金100,000円、年間授業料660,000円 ・茨城大学:入学金282,000円、学費免除(4年間) ◎奨学金など ・茨城大学の育成奨励金:40,000円×10カ月(大学1年) ・筑波銀行の奨学金:50,000円×1年(大学2年) ・ニトリの奨学金:110,000円×2年(大学3、4年) 奨学金は、大学からの紹介以外にJASSOのウェブサイトにまとめがあります。私は1年で5、6件応募したこともあります。奨学金を目標に勉強もがんばりました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3~4年のとき※100円=22,148ドン(2021年1月11日現在) 収入(合計約260,000円) 似鳥国際奨学財団の奨学金 110,000円 警察などの通訳 約150,000円 支出(合計約113,000円) 家賃 18,000円 ※3人暮らし(1人分の分担額) 授業料 免除 光熱費 10,000円 ※水道・電気・ガスの合計(1人分) インターネット なし ※自宅では使わなかった 携帯電話 5,000円 ※Y-mobile 食費 40,000円 ※昼食は学食で、朝夕は自炊 マイカーの維持費 30,000円 ※ガソリン、保険、メンテナスなど 雑費 10,000円 ※ビジネス勉強会参加費など 毎月の差額・貯金(約147,000円) 貯金 約147,000円 今回の先輩 Lê Văn Thành(レ・ヴァン・タン)さん 2011年レティファ(Le Thi Pha)高校卒業〈ラムドン〉 2011年ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2012年盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科入学 2014年大阪YMCA日本語学校進学準備コース入学 2015年茨城大学工学部入学 2019年茨城大学卒業 2019年株式会社越設立〈茨城〉 〈1993年生まれ、ラムドン省出身〉タンさん 日本での大学時代に通訳のアルバイトをたくさん経験したタンさん。通訳業務を通じてできた人脈や知識を活かして大学卒業と同時に会社を設立し、ベトナム料理店を開店した。就職せず起業するに至ったプロセスを紹介する。 〈このページの内容〉 • 一流大学に合格、選んだのはドンズー • 日本の日本語学校の選び方 • アルバイト面接を確実に受ける方法 • 人生を変えた通訳アルバイト • 取り調べ通訳 • ベトナム人コミュニティ • 最小費用でベトナム料理店開店 •留学生時代の生活費 一流大学に合格、選んだのはドンズー 高校3年のときに学校の留学説明会でドンズー日本語学校のことを聞きました。米国留学には莫大な費用がかかりますが、ドンズーから日本に留学する場合、「訪日前の費用はあまりかからず、訪日後も、米国より授業料が安く、生活費もアルバイトである程度まかなえる」とのことでした。先生からドンズー出身の実業家も紹介してもらい、その人に会って話も聞きました。 私はホーチミン自然科学大学 (Trường Đại học Khoa học Tự nhiên - Đại học Quốc Gia TP.HCM)にも合格しましたが、ドンズーに進みました。ドンズーでは、留学後の心構えとして「お金を稼ぐのは社会人になってから。学生の間は勉強中心」と教えられました。 ドンズー日本語学校の後輩たちと〈ホーチミン市で2012年〉 日本の日本語学校の選び方 ドンズーで1年間勉強し、2012年10月に岩手県盛岡市の日本語学校に入りました。ここで1年半学んで秋田大学を受験しましたが、不合格。そこで、大阪YMCA日本語学校で浪人生活を送りました。 大阪YMCAに転校した理由は、ベトナム人の少ない環境で勉強したかったのと、日本語以外の授業も充実していたからでした。盛岡ではクラス11人中9人がドンズー生で、アパートにもドンズー生が18人固まって住んでいました。一方、大阪では留学生40人のうちベトナム人は6人で、クラスメートとの共通言語が日本語になりました。また、大阪では数学、化学、物理の授業も充実していました。1年後、私は3つの国立大学に合格し、茨城大に進みました。 大阪YMCAでベトナム人仲間と〈2015年〉 アルバイト面接を確実に受ける方法 盛岡でのアルバイトは主に新聞配達でした。午前3時に起きて自転車で300部を配ります。夏は1時間15分で終わりますが、冬(11月~3月)の雪の日は路面が凍り、自転車がすべって転倒するので大変でした。転倒して新聞が路面に散らばってぬれると、店に新しい新聞を取りに帰ります。このため、雪の日の配達は平均3時間かかりました。しかも、盛岡の朝は寒く-15℃の日もありました。 新聞配達には会話がなく、周りに気をつかわない点は楽ですが、日本語も上達しません。そこで、大阪では人と接するバイトを探し、牛丼店とコンビニで働きました。牛丼店は先輩からの紹介で、コンビニについては独自の方法で採用してもらいました。その方法を紹介します。 まず、写真付きの履歴書や在留カードのコピー(両面)などの必要な書類をしっかり準備した上で、「アルバイト募集」のはり紙がある店にアポなしで入り、店長らしい人を探して声をかけます。「はり紙を見ました。アルバイトをさせていただけませんか?」。たいていは「履歴書を郵送してください」と言われますが、その場で履歴書などを渡せると、良い印象を与えられて、そのまま面接をしてもらえる場合があります。そして、採用してくれる確率も高くなると思います。 私はこの方法で、大阪でコンビニに採用され、茨城でもロッテリアとコンビニに採用されました。ロッテリアの場合は、求人情報誌で募集を知ったのに、電話をせず店に直接行って採用されました。当時、留学生仲間は求人情報誌を見て電話をかけまくるのが通常でしたが、その場合は「100件電話して10件面接、1件合格」が相場でした。 大学の学園祭(フォー店)の準備。アルバイトも学校生活も充実〈2016年〉 人生を変えた通訳アルバイト 大阪では観光ガイドもしました。大阪・京都・神戸の観光地や店でベトナム人観光客のガイド兼通訳をしたのです。旅行会社に勤めるドンズーの先輩からの依頼で、茨城に移ってからも東京などの案内をしました。 観光ガイドで通訳をかじった私は大学2年のときにもう少し本格的な通訳を始めました。最初は、大学の先輩ベトナム人の紹介で、大きなホテルでのバイトでした。このホテルにはベトナムからの団体客も多く、朝食時に通訳兼ウェイターが必要だったのです。場所が遠いので1年半でやめましたが、通訳の手始めとして最適でした。 観光ガイドの仕事で観光客たちを迎えに関西空港へ〈2014年〉 また、この年には留学生の就職支援をする会社でも働きました。その仕事を通じて茨城県庁や茨城県観光物産協会などの方々と知り合い、役所などの公的機関から通訳の依頼を受けるようになりました。例えば、ベトナムから茨城県にバイヤーを招いて酒造会社の見学会を行うといった場合、朝から晩まで通訳をします。報酬は1日30,000円~40,000円になることもあります(安い仕事もあります)。そして、見学会後に企業間の個別取引が始まると、メールや書類の翻訳、打ち合わせの通訳などを企業から依頼されることもありました。 開始年 終了年 通訳などのアルバイト 報酬・謝礼 2014 2016 観光ガイド 20,000円以上/日 2015 2016 ホテルでの通訳 1,500円/h 2015 2016 技能実習生への日本語講習 10,000円~15,000円 / 日 2015 継続中 ビジネス関連の見学会、商談、行政の会議など(公的機関や企業からの依頼) 最高40,000円/日(安い仕事もある) 2016 継続中 警察などの通訳 6,300~6,600円 / h※遠隔地の場合は交通費も 2017 2018 法律関係書類やビジネス書類、広告などの翻訳 内容次第 こうしてビジネス現場に関わるようになった私はビジネスに興味を持ち、ビジネスの勉強会にも参加するようになりました。そこで知り合った経営者たちの影響を受け、卒業と同時に起業する大きなきっかけになりました。 ちなみに、「ベトナムのメッシ」と呼ばれるサッカーのベトナム代表、グエン・コン・フォン選手が2016年に茨城県内のプロサッカーチームでプレーした際には、インタビューなどで十数回、彼の通訳を担当しました。県庁関係者の紹介でチームから依頼された仕事でした。 コン・フォン選手の通訳も担当〈2016年〉 取り調べ通訳 県庁の仕事以外に、大学の先輩の紹介で茨城県警や水戸地方検察庁の通訳もしました。在留ベトナム人が増え、残念なことにベトナム人の犯罪も増えました。ベトナム人が逮捕されて警察や検察の取り調べを受ける際、通訳が必要です。担当した中で一番多いのはオーバーステイで、次は万引きです。 ある殺人事件では容疑者や参考人が多く、5人で通訳を分担しました。この事件では、取り調べが1日8時間に及ぶこともざらでした。取り調べ通訳は普通の通訳の何倍も疲れるので、8時間もやるとくたくたです。また、深夜や早朝の通訳もあります。容疑者が夜に逮捕されると、深夜に警察に呼び出されて通訳をします。また、容疑者を早朝に任意同行したり逮捕したりする場合、夜明け前に容疑者宅付近に集まり、夜が明けてから逮捕するのが通例です。捜査官が相手に氏名を確認したり逮捕の理由を伝えたりする際に通訳が必要です。 ベトナム人コミュニティ 大学時代、Facebookグループで地元ベトナム人を集めて一緒に遊びに行ったり、監理団体のアルバイトで知り合った技能実習生から困りごとの相談に乗ったりするなど、地域のベトナム人コミュニティへの関与を心がけました。そんな中、2019年に筑波大学医学部のカン准教授から持ちかけられ、一緒に茨城県ベトナム人協会の設立を準備しました。協会の最初のイベントは2020年1月のテト(旧正月)の祝賀会で、約200人が参加しました。この年の主な活動は以下の通りです。 ・Facebookで新型コロナなどの情報を発信 ・新型コロナで生活に困っているベトナム人への食料支援 ・写真撮影大会 ・サッカー大会(約20チーム参加、2回) ・バレーボール大会(8チーム参加) ・弁護士を招いて無料相談会(7月~12月に計6回) 私の店で行った無料相談会(左から相談者、私、弁護士)〈2020年10月〉 最小費用でベトナム料理店開店 ビジネス勉強会で親しくなった経営者には飲食業界の人も多く、影響を受けました。また、専門学校や大学の学園祭で提供したベトナム料理が人気だったこともあり、ベトナム料理店の経営が私の目標になりました。そこで、大学3年だった2017年から、日本人と結婚しているベトナム人女性が立ち上げたフォー店の運営をサポートし、レシピを作ったりチラシを配ったりしました。 2019年に女性は家庭の事情で経営から退き、この年に大学を卒業した私が店を継ぎました。私は店の運営会社を設立して同年8月、店を別の場所に移してベトナム料理店「123Dzô(モッハイバーヨー)」を開きました。場所はJR水戸駅から約1㌔の幹線沿いで、店名はベトナムでの乾杯のかけ声です。 ベトナム料理店123Dzô〈2020年〉 店舗は2階建ての一軒家です。前のテナントの居酒屋が残していった備品があり、次のようなコストが浮きました。 ・業務用エアコン3台(新規購入なら400万円以上) ・料理を1階から2階に上げる機械(同300万円以上) ・業務用冷蔵庫 ・業務用冷凍庫 ・厨房設備一式 また、私は日曜大工が好きなので、内装も自前でやりました。1人でできない部分は、教え子の技能実習生たちが手伝ってくれました。こうして、一からそろえると約6,000万円かかる店の準備費が計数十万円で済みました。経営は順調で、お客さんは日本人とベトナム人が半々です。将来は、営利度外視の日本語学校を日本で設立し、多くのベトナム人留学生を大学に進学させるのが夢です。 店内ではベトナムの食品や調味料も販売 留学生時代の生活費 最後に私の留学時代の生活費について紹介します。 ◎学費 ・大阪の専門学校:入学金100,000円、年間授業料660,000円 ・茨城大学:入学金282,000円、学費免除(4年間) ◎奨学金など ・茨城大学の育成奨励金:40,000円×10カ月(大学1年) ・筑波銀行の奨学金:50,000円×1年(大学2年) ・ニトリの奨学金:110,000円×2年(大学3、4年) 奨学金は、大学からの紹介以外にJASSOのウェブサイトにまとめがあります。私は1年で5、6件応募したこともあります。奨学金を目標に勉強もがんばりました。 大学4年のときに勤務先のフォー店で知り合った妻と結婚〈水戸市で2019年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3~4年のとき ※100円=22,148ドン(2021年1月11日現在) 収入(合計約260,000円) 似鳥国際奨学財団の奨学金 110,000円 警察などの通訳 約150,000円 支出(合計約113,000円) 家賃 18,000円 ※3人暮らし(1人分の分担額) 授業料 免除 光熱費 10,000円 ※水道・電気・ガスの合計(1人分) インターネット なし ※自宅では使わなかった 携帯電話 5,000円 ※Y-mobile 食費 40,000円 ※昼食は学食で、朝夕は自炊 マイカーの維持費 30,000円 ※ガソリン、保険、メンテナスなど 雑費 10,000円 ※ビジネス勉強会参加費など 毎月の差額・貯金(約147,000円) 貯金 約147,000円

    2021年01月25日

主催者

Nhà tài trợ Bạch Kim

後援

  • 在ベトナム日本国大使館
  • 国際交流基金ベトナム日本文化交流センター
  • JNTOハノイ事務所
  • 関西経済連合会
  • 一般社団法人 国際人流振興協会
  • 公益社団法人 ベトナム協会
  • NPO法人 日越ともいき支援会

協力

JASSO(日本学生支援機構)

外国人労働者弁護団

WA.SA.Bi.