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VOL. 92 日本の文学小説を多数翻訳・出版

ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 •...

2023年06月12日
  • VOL. 91 来日後も勉強を続け職場のリーダーに

    2023年05月29日
    食品工場で技能実習生から特定技能外国人になったトゥエットさん。彼女は、来日直後は日本人の話すことが全然わかりませんでしたが、毎日3時間勉強を続け、数カ月で少し会話ができるようになり、2年でJLPT・N3に合格しました。今は、職場のベトナム人のリーダーとして活躍しています。 今回の先輩 グエン・ティ・トゥエットさん 2017年高校卒業〈ハイズオン省〉 2018年送出機関で約半年間勉強〈ハノイ〉 2018年来日→講習→技能実習〈福岡県〉 2021年特定技能外国人〈同じ会社〉 〈1999年生まれ、ハイズオン省出身〉 ◆このページの内容 • 幼いころから母をサポート • 技能実習の送出機関 • 日本での仕事の内容 • ベトナムに送ったお金 • 私の家計簿 • 休日の過ごし方 • ミスコンテストで入賞 • 日本語の勉強 • 将来の夢 幼いころから母をサポート 家族と親せき(右端が母) 私が2歳のとき、父が交通事故で亡くなりました。母はその後、1人で田畑を耕(たがや)して、私と弟を育ててくれました。母は米や野菜、果物を栽培し、私もときどき朝早く起きて、水路からおけで水をくみ、畑にまきました。私はこのように畑仕事を1時間ぐらい手伝ってから学校に行きました。また、6歳のときから母の料理を手伝い、12歳からは料理も掃除も私が1人で担当しました。 私の故郷では、日本に出稼ぎに行く人も多かったので、私も高校生のころから「将来は日本に行きたい」と思っていました。 お金を稼いで母を楽にしてあげられますし、自分のお金も貯めて、将来は故郷でブティックを開業したいという夢があったからです。そして、高校を卒業すると、親せきがハノイの送出機関を紹介してくれました。 技能実習の送出機関 私は高校を卒業してから約半年間、母の仕事を手伝い、技能実習の採用面接(今の会社の面接)に合格すると、ハノイの送出機関に入って日本語を勉強しました。面接には約150人が参加し、40人が選ばれました。 私は送出機関に7200 USDを米ドルで支払いましたが、契約書や領収証に書かれた費用は3500 USDでした。また、これ以外に寮費や食事代、日本に持って行く服など、約25万円(約45,000,000 VND)を使いました。 【編集部からのアドバイス】 送出機関の費用7,200 USDはベトナム政府の規定を大きく超えています。 高い費用を払っても、よい会社を紹介してもらえるとは限りません。 送出機関を選ぶときは、親せきや知人の紹介だけに頼らず、インターネットの口コミなども調べましょう。送出機関に無駄なお金を払わないために、KOKOROの記事もよく読んでください。 external link KOKORO|送出機関を決める前にこれだけは知っておこう! external link KOKORO|技能実習の費用と注意点 日本での仕事の内容 私は技能実習生として2018年8月に来日しました。私の職場は大きな弁当工場です。コンビニで販売する弁当やおにぎり、チルド食品(親子丼、オムライス)などを作っています。私の最初の仕事は、できあがった弁当を箱に詰め、台車に乗せてトラックの近くに運ぶことでした。ご飯やおかずを弁当箱に詰める仕事もときどきやりました。そして、3年間の技能実習が終わり、特定技能に移ってからは、厨房(ちゅうぼう)で各レーンに食材や調味料を配る担当になりました。 ところで、私の勤務は夜勤だけで、勤務時間は19時から翌朝6時まで(途中で休憩1時間)です。日勤のベトナム人は約50人、夜勤のベトナム人も約50人で、私は来日して2年目から夜勤のベトナム人のリーダーをしています。これは、私の日本語力や勤務態度が評価されたからで、リーダーとしての手当も付いています。 ベトナムに送ったお金 改修した実家の前で母と私 技能実習生のときの私の手取り給料は毎月15万円~17万円でした。毎月35~40時間の残業があり、深夜勤務手当てもあり、リーダー手当もあったので、かなり高い給料です。そして、特定技能外国人になってから手取り給料は毎月18万円~20万円に上がりました。私は来日して最初の1年間で約125万円をベトナムに送って来日前の借金を完済し、その後3年間でさらに約360万円を送り、一部は実家の改修に使ってもらいました。 ただ、日本に来てからずっと夜勤なので、体調が悪くなってきました。4年目から昼間の勤務に変更してもらった同期生もたくさんいますが、夜勤の方が日勤より毎月約3万円多くもらえるので、私は夜勤を続けてきました。しかし、疲れがたまってきたので、近いうちに会社に相談して日勤に変えてもらうつもりです。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:180,000円 給料 ¥180,000 *税金や社会保険、寮費、水道・光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(14,000円)、電気・ガス・水道(10,000円) 支出:80,000円 食費(主に自炊) ¥40,000 生活雑貨、衣類、化粧品など ¥15,000 交際費、外食費など ¥35,000 毎月の差額:100,000円 休日の過ごし方 在日ベトナム人の間ではサッカーが盛んで、福岡でもベトナム人チームの試合や大会がよくあります。私は日曜によくサッカーの試合を見に行きます。試合会場に行くと、同じように応援に来ている人たちと友だちになれるので、一緒にお弁当を食べたり遊びに行ったりしています。 また、休日にベトナムの伝統的舞踊であるmúa(ムア)の練習をすることもあります。私の住む博多市内で地元の著名ベトナム人が自分の借りている部屋を開放し、ムアのダンスクラブ(参加費無料)を開催しています。そこに技能実習生や特定技能外国人が5、6人集まって練習をしています。ベトナムの幼稚園や小学校でムアを習いますが、私は高校生のときもYouTubeでムアの踊り方を研究して練習していました。大好きなムアを踊ると、ストレスが解消されます。 ミスコンテストで入賞 大きなミスコンで入賞〈福岡県で2022年1月〉 福岡では「在福岡ベトナム人協会」などベトナム人団体の活動が盛んで、毎年テト(旧正月)の時期に大きなお祭りがあります。そのときにミスコンテストも行われますが、私もインターネットでミスコンのことを知って参加したところ、入賞しました。 賞金をもらったほか、ミスコンの様子を公式動画に収録してもらいました。それ以外に、地元のアオザイ大会でも優勝しました。 日本語の勉強 私は来日前に約半年間、送出機関で朝から夕方まで日本語の授業を受け、夜も3、4時間自習しました。それでも、日本に来たばかりのときは、日本人の話す言葉が全然わかりませんでした。 しかし、来日後も毎日3、4時間勉強を続けたところ、3、4カ月で少し話せるようになり、今では毎日、職場の日本人と話をしています。このため、2年目からは職場のベトナム人のリーダーに選ばれ、日本人がベトナム人に仕事を指示する際に通訳をすることもあります。また、日本に来たばかりの実習生は日本語がまったく分からないので、約2カ月間、日本人と私が一緒に仕事を教えます。 こうして日本語を話せるようになったので、職場の日本人やネパール人留学たちと仲良くなり、仕事が終わってから日本語で少し話をしています。日本人の先輩と一緒に寺や公園に観光に行ったこともあります。 帰国後に日本語力を生かして送出機関の日本語の先生になろうと思っていた時期もありました。そのため、毎日3時間、眠いのをがまんして日本語の勉強をしていました。そして、来日して2年で日本語能力試験(JLPT)のN3に合格しましたが、その後、日本語教師の給料があまり高くないことがわかり、最近は以前ほど勉強しなくなりました。 将来の夢 ハイズオン出身の福岡の友だち 私は技能実習を3年やり、もうすぐ特定技能も2年になります。日本で覚えた技術を母国に持ち帰って経済発展に生かすのが技能実習の建て前ですが、私も仲間も日本で働いて覚えたことを帰国後の仕事に生かすことは考えていません。そもそも、ベトナムでは日本ほど弁当が売れていないので、弁当工場もありません。 今後のことはまだ確定していませんが、多分、あと2、3年働いてベトナムに帰国し、故郷のハイズオンで結婚相手を探すと思います。日本の生活も楽しいですが、母や昔からの友だちに会えないのは寂しいので、やはり故郷で暮らす方が私には向いています。そして、日本で働いたお金の一部は母にあげ、残りのお金で婦人服を売るブティックを開業するのが私の夢です。
  • VOL. 90 寝ても覚めても勉強し3年でN1合格

    2023年03月31日
    日本に留学してまもなく「自分で努力しなければ、いつまでたっても日本語で会話できるようにならない」と気づいたウットさん。空いている時間はいつも日本語を勉強し、3年でN1に合格。日本での就職や帰国後の日系企業への就職でも大いに役立ちました。 今回の先輩 タ・ティ・ウットさん 2011年高校卒業 2012年日本語学校入学〈福岡県〉 2014年専門学校入学〈福岡県〉 2015年結婚、JLPT・N1合格 2016年専門学校卒業 2016年日本で就職〈愛知県〉 2017年夫の転勤に伴い帰国 2017年HISハノイ支店入社(正社員) 2019年出産 2020年日系の会計事務所入社〈ハノイ〉 〈1993年生まれ、ハノイ出身〉 ◆このページの内容 • 準備不足で訪日 • 日本語学校と専門学校に留学 • 学校選びに失敗 • 寝ても覚めても日本語を勉強 • アルバイトでたくさん日本語会話 • 私の家計簿 • 日本で留学生と結婚 • 夫の転勤で帰国 • ハノイで日系企業の正社員に • 別の日系企業に転職 • 日本留学で得たもの 準備不足で訪日 私の姉は2010年から日本に留学し、その後、日本人と結婚して今も日本に住んでいます。私は高校卒業後、姉に習って日本に留学することにしました。その準備として、ハノイの日本語センターの寮に住んで3カ月間勉強しました。その間は授業を含めて毎日6時間勉強しましたが、日本で暮らすために日本語がどれぐらい必要かわかっていなかったので、今から思うととても不十分な勉強でした。 ひらがな、カタカナと簡単な会話しか覚えずに日本に行った私は、当初、言葉のことでとても苦労することになります。 日本語学校と専門学校に留学 日本で一緒に暮らした姉(右) 私は2012年10月、姉が通っていた福岡市の「西日本国際教育学院」という日本語学校で留学を始めました。最初の3カ月間は学校の寮に住み、4カ月目からは姉と一緒に暮らしました。 日本語学校で1年半学んだ後、私は「国際貢献専門大学校」という専門学校に進みました。この学校は、私が通った日本語学校の系列校です。本当は他の大学か専門学校に行きたかったのですが、系列校に進学すれば学費が割り引かれるという特典にひかれてその専門学校を選びました。しかし、この学校を選んだことを後で大きく後悔することになりました。 学校選びに失敗 私はこの専門学校でITを学ぼうと思い、「情報ビジネス」を専攻したのですが、専門分野の授業はほとんど受けられませんでした。当時、この学校はできたばかりで、学校の準備不足によってITの教師が不足していたのです。 IT関係の授業は休講続きで、代わりにいつも日本語の授業を受けされられました。しかも、私は専門学校に入る前に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、当時はN2・N1を目指していたにもかかわらず、専門学校の日本語授業はN3・N4レベルでした。私は担任の先生に「もっとITの勉強をしたい」と何度も訴えましたが、何も改善されませんでした。後輩の皆さんは学校の評判をよく調べてから進学先を選んでください。 寝ても覚めても日本語を勉強 留学を始めて最初の数カ月間、私は日本語力不足でアルバイトが見つかりませんでした。友人からアルバイトを紹介してもらっても、工場など日本語を話さなくてもよい職場ばかりでした。私はまわりの日本人が話す日本語がほとんどわからず、自分の言いたいことも伝えられず、ストレスがたまっていつも家で泣いていました。 そして、「日本語がわからないと何もできない」「自分で勉強しないと、どれだけ日本人と交流しても話せるようにならない」と気づき、猛勉強を始めました。学校の授業以外に、昼でも夜でも休日でも空いた時間はできるだけ日本語を勉強し、アルバイト先でも上司や先輩とできるだけ会話するようにしました。 その結果、私は留学を始めて9カ月後にJLPT・N3に合格し、その2年後にN1に合格しました。最初は「みんなの日本語」を使い、N2・N1対策には市販の問題集を使いました。また、自分の好きなYouTubeチャンネル(日本語)を聴いてリスニングの練習をしました。 アルバイトでたくさん日本語会話 アルバイト仲間の日本人たちと焼肉会 日本語が話せるようになるにつれ、日本語を使うアルバイトに採用されるようになりました。そうなると、仕事をしながら日本語の練習ができ、わからない言葉や言い方は日本人の先輩や同僚に教えてもらえるので、日本語の会話力が急速に伸びていきました。 アルバイト探しについては、友人に紹介してもらうか、無料の求人情報誌を見て店に電話をかけ、面接を申し込みました。そして、アルバイト先の先輩や仲間と仲良くなり、一緒にご飯を食べに行くこともよくありました。また、クリーニング工場のおばさんは自宅に私と友人を招いてくれました。これらの人たちの中には、今もFacebookなどで連絡を取り合っている人もいます。 ◎私が日本で経験した主なアルバイト クリーニング 工場でクリーニングした大きなカーテンを2、3人でたたむ仕事。ホテルで使うカーテンでした。 ビジネスホテル ベッドメイキング、清掃 居酒屋 ホール(接客)、片付け、開店準備 レストラン キッチン、早朝の仕込み(料理の準備) 弁当店 キッチン、レジ 技能実習生の監理団体(組合) 通訳、技能実習生の生活サポート) 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校時代の家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:120,000円~150,000円 給料 ¥120,000~¥150,000 ※アルバイト2、3件 支出:158,000円~160,000円 学校の授業料 ¥55,000 家賃(ワンルーム) ¥50,000 ※1に暮らし、Wi-Fi・水道代込み 電気・ガス ¥8,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 食費 ¥25,000 ※バイト先で無料のまかないを食べることも多かった。 雑費 ¥10,000 ※交通費、学習教材、衣類 毎月の差額:▲10,000円~38,000円 ※夏休みなどの長期休みに多く働いて不足を補いました。 日本で留学生と結婚 新婚時代の夫と私 私の姉は福岡で日本語学校から大学に進学しましたが、ある日、姉の大学の同級生のベトナム人男性が姉と私の家に遊びに来ました。ほどなくして私は彼と付き合うようになり、約2年半後、彼は大学を卒業して日本で就職することになりました。その少し前に私たちは結婚し、福岡のベトナム総領事館に婚姻届けを出しました。その後、私も就職が決まり、名古屋に引っ越して一緒に住みました。 私は就職するまで3年半留学しましたが、生活費や学費を稼ぐために早朝や夜にアルバイトをし、それ以外は勉強に打ち込んでいたので、休日は疲れて横になっていることも多く、旅行にはあまり行きませんでした。夫と知り合ってからも一緒に公園やゲームセンターなどでデートするぐらいで、観光はあまりしませんでした。今にして思えば、日本にいる間にもっとあちこちに旅行しておけばよかったと思います。 夫の転勤で帰国 帰国直前にベトナムの家族を名古屋に招待 私たちは2015年に結婚し、私は正社員の夫の妻として日本に在留する予定だったので、本格的な就職活動はしていませんでした。しかし、夫の勤務地が名古屋に決まると、私は家の近くでできる仕事を探し、この会社に履歴書を送って面接を受けたところ、携帯電話ショップを運営する会社の正社員に採用されました。 日本の携帯電話ショップの店員は携帯電話の端末を売る仕事よりも通信契約に関する対応が多いので、さまざまなことを覚えなければなりません。そのため、通常は入社後6カ月間の新人研修を経てやっと店に出ることができます。研修では、接客マナーやパソコン操作、さまざまなサービス内容を学びますが、私は3カ月で覚えることができ、通常より早く店に出ることができました。しかし、就職して1年半後に夫がハノイに転勤になり、私も退職して帰国することになりました。 ハノイで日系企業の正社員に HISハノイ支店の入っているビル〈2018年〉 2017年7月に帰国してまもなく、私は日本の大手旅行会社HISのハノイ支店で正社員として働き始めました。店のカウンターで日本人客(主に駐在員)に航空券やホテル、ツアーを手配する担当でした。個人がインターネットで航空券やホテルを手配することもできますが、会社の業務で出張する場合に旅行会社を使うと、経理処理に必要なインボイスが発行されますし、顧客サービスも良いので、HISを使う日本人はとてもたくさんいました。 ところで、私は帰国が決まってすぐにハノイでの仕事を探し始めました。しかし、日本と違ってベトナムでは面接に合格したらすぐに働き始めてほしいという会社がほとんどだったので、結局、帰国後にFacebookで仕事を探し直し、HISに入りました。 別の日系企業に転職 HSKVのパーティー 私はHISで約2年半働き、出産を機に退職しました。そして、2020年からはHSKV(HSK Vietnam Audit Company)という日系の会計事務所で働いています。私の仕事は会長(日本人)の秘書で、秘書業務以外に下記のような仕事も担当しています。 監査報告書や移転価格報告書、事業概況報告書などの翻訳 顧客企業の帳簿の入力 顧客企業の給与計算表のチェック 個人所得税の計算と申告 顧客企業の日本人駐在員の労働許可証・ビザ・レジデンスカードの申請 HSKVの仕事もFacebookで探し、給料はHISのときより約30%上がりました。転職したのは、HISでは土日の出勤もあったため、出産後の生活に合わなくなったためです。今の会社を選んだのは、朝8時~9時の間に出勤し8時間勤務すればよいというフレキシブルな勤務時間と自宅から近いことが決め手でした。 ハノイに戻って2つの日系企業に就職して思うのは、日系企業への就職には、履歴書の内容よりも面接での評価(日本語会話力や対人能力など)の方が重視されるような気がします。 日本留学で得たもの 私は留学中、学校選びに失敗したことをとても後悔しました。しかし、学校で専門知識は得られなかったものの、自分で日本語の勉強やアルバイトに一生懸命に取り組み、3年でJLPT・N1に合格できました。また、アルバイト仲間に日本語で積極的に話しかけ、会話も十分にできるようになったので、ベトナムに帰国して日系企業に就職する際にとても役立ちました。 留学せずベトナムで日本語を勉強する人も素晴らしいですが、留学経験者の方が全体的にリスニング力が高く、日本での生活やアルバイトも経験したということで、日系企業での就職には有利なようです。私は日本で留学できて本当に良かったと思います。
  • VOL. 89 「みんなの日本語」の解説本を翻訳

    2023年03月24日
    日本語を学ぶ外国人の多くが最初に手にする日本語の教科書「みんなの日本語」。その解説本4冊を1人でベトナム語に翻訳したドンア大学副学長のヴィンさん。ヴィンさんの日本留学体験や学生時代の勉強方法などを紹介します。 今回の先輩 ゴ・クアン・ヴィン さん 1998年高校卒業〈クアンチ省〉 1998年ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部入学 2002年ハノイ大学卒業 2002年日本の設計会社で勤務(通訳・翻訳)〈ハノイ〉 2004年国立ダナン大学外国語大学日本語学科で日本語講師 2008年一橋大学で研究生として留学〈東京〉 2010年一橋大学修士課程入学 2012年一橋大学博士課程入学 2015年一橋大学博士課程修了 2015年国立ダナン大学外国語大学日本語・韓国語・タイ語学部長 2020年ドンア大学副学長兼日本言語文化学部長〈ダナン〉 〈1980年生まれ クアン・チ省出身〉 ◆このページの内容 •「みんなの日本語」の解説本を翻訳 • 大学で日本語を学び日系企業へ • 私の日本語学習法 • 6年半の日本留学 • 私の家計簿 • 留学中の交流 • 留学中に困ったこと • ベトナム語の専門書を日本語で出版 • ドンア大学について 「みんなの日本語」の解説本を翻訳 日本語を学ぶ外国人の多くが最初に使う教科書「みんなの日本語」の「翻訳・文法解説」があるのをご存じの方も多いと思います。「みんなの日本語」は日本語だけで書かれているので、十分に理解できないときに「翻訳・文法解説」を読めば、内容が理解しやすくなります。私は2013~16年に「みんなの日本語」初級Ⅰ、初級Ⅱ、中級Ⅰ、中級Ⅱの「翻訳・文法解説」をベトナム語に翻訳しました。 この翻訳を始めたとき、私は一橋大学(東京)で留学していましたが、そのときの指導教官が私のベトナム語力と日本語力を高く評価し、出版社に推薦(すいせん)してくださったことがきっかけでした。翻訳する際には、もとの日本語の意味ができるだけ正しく伝わるベトナム語にしたいと思い、言葉をていねいに選びながら時間をかけて翻訳しました。 大学で日本語を学び日系企業へ 会社の仲間と日本の石炭鉱山の見学 私が高校のとき、有名な日本ドラマ「おしん」がベトナムで放送されていました。わたしは主人公・おしんのけなげな生き方や勤勉さ、ドラマに出ていた昔の日本家屋などがとても気に入って、日本についてもっと知りたくなりました。高校では英語コースでしたが、大学では別の外国語を勉強しようと思っていたこともあり、ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部に入りました。 私は大学で4年間日本語を学んだ後、新聞の広告欄で見つけた日系企業に入りました。これは木造住宅の構造設計をする会社で、私は日本人の社長や技術者たちとベトナム人スタッフとの間の通訳や書類の翻訳をするチームのリーダーとして働きました。その後、大学で日本語を教える仕事に興味を持つようになり、知人の紹介で国立ダナン大学の日本語講師になりました。 私の日本語学習法 ハノイ外国語大学の教室で 私は大学生のとき、大学のゼミや講義以外に毎日6~8時間、自習しました。インターネット上の学習素材も紙の日本語教材も少ない時代だったので、今よりも勉強に工夫が必要でした。そのときに私が行った勉強方法を紹介します。 新聞の1面のコラムを読む:私は日本の新聞の1面のコラムを読み、ほぼ毎日、その内容について大学の先生と日本語でディスカッションしました。 自分で文章を作って読む:参考書に書かれている語彙(ごい)や文型を使って文章を作り、自分で声を出して読みました。 ハノイ大学日本語学部の級友たちとお出かけ これ以外に、古本屋で日本の古新聞を買い、何度も辞書を引きながら読みました。言葉の勉強では、やはり辞書を使い込むことが大事です。それでも理解できない部分がたくさんあったので、私は大学でただ1人の日本人の先生にアポを取り、質問に応じてもらいました。ただ、当時ハノイには日本人がまだ少なく、ネィティブの日本人との会話練習がほとんどできないのは残念でした。 6年半の日本留学 修士課程を修了 ダナン大学で講師をしているとき、日本の文部科学省が提供する留学生向け奨学金に応募しました。そして、在ベトナム日本国大使館で試験を受けて合格し、国費留学生として日本に行くことになりました。留学先には東京外国語大学も検討しましたが、少人数で勉強・研究できる一橋(ひとつばし)大学を選びました。 こうして私は2008年10月に一橋大学の研究生として訪日し、研究生1年半、修士課程2年、博士課程3年の計6年半、文科省の奨学金で留学しました。そのうち約2年間は妻と一緒に暮らしましたが、妻が2011年に東日本大震災による原発事故を契機に帰国してからは妻子と離れて留学しました。 妻と息子 私は留学中はずっと学費無料で奨学金も受給していたので、アルバイトは最小限にしてできるだけ勉強をしました。しかし、毎年、お盆とテト(旧正月)に帰国するための旅費がかかり、普段は節約生活を強いられました。私がよく使った便は成田→香港→ハノイ→ダナンというルートで、乗り継ぎが悪いため安価でした。一番安いときは往復28,000円でしたが、留学中に燃油サーチャージ(12,000円~15,000円)を加算する制度が始まり、大きな痛手でした。また、当時はSNS電話がなかったので、30分3,000円の国際電話(当時としては格安)でたまにだけ妻と話しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※博士課程のときの家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:200,000円 奨学金 ¥150,000 給料 ¥50,000 ※アルバイト(通訳・翻訳、辞書作りの手伝いなど) 支出:100,000円 授業料 ¥0 家賃 ¥50,000 ※東京都内、ワンルーム 電気・ガス・水道 ¥5,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 ※国際電話代を含む インターネット ¥6,000 食費 ¥35,000 ※昼は大学の食堂、夜は主に自炊。 交際費 ¥15,000 雑費・交通費 ¥20,000~¥25,000 ※衣類、教材、交通費、化粧品など 毎月の差額(貯金):60,000円 ※貯めたお金で帰国の際の航空券などを購入。 留学中の交流 ベトナム人仲間と東京で日本庭園(夜間ライトアップ)を見学 6年半も日本に住んだので、日本人との交流もたくさんありました。指導教官やゼミの仲間と食事に行ったほか、アルバイトを通じて知り合った人たちとも交流しました。 ベトナム人同士の交流もありました。国費留学に合格した同期のメーリングリストがあったので、日本に行ってから留学生同士の交流のきっかけになりました。 また、東京のベトナム大使館が独立記念日やテトの際に行うイベントもあり、そこでもベトナム人同士の交流ができました。 留学中に困ったこと external link KOKORO|花粉症について(※クリック) ところで、留学中に困ったこともたくさんありました。 休日に病気になったとき 休日に医療機関に行っても対応してくれず、困りました。留学3年目に花粉症になり、くしゃみと鼻水がひどく、とても疲れました。そこで、週末に2、3カ所の医療機関に行きましたが、休日なので受け付けてくれず、どうしたらよいかも教えてくれませんでした。その後、平日になんとか時間を作ってクリニックに行き、薬を処方してもらいました。また、ひどい腹痛のときに近くの病院に電話しましたが、「大きな症状やけがなら診(み)るが、今回は無理です」と断られ、がまんするしかありませんでした。いずれも機械的な対応で、「外国人だから対応が悪いのでは」と感じました。日本は外国人向けの公的な救急医療制度をもっと充実させるべきだと思います。 external link KOKORO|日本での住宅の探し方(※クリック) 住宅探し アパートを探すとき、外国人だから借りられない物件がたくさんありました。その後、当時よりはましになったものの、今も外国人お断りの物件が多いと聞きます。 外人扱い 電車内でベトナム人同士で会話していると、そばにいた日本人たちが向こうに行ってしまいました。日本の電車内でのマナーを理解して私たちは小さな声でしゃべっていたのに、そのような行動をされ、残念でした。また、電車内でくしゃみをすると、マスクをしていても周囲から冷たい視線を受け、これも外国人への偏見のように感じました。このため、かぜをひいたときは電車に乗るのがおっくうでした。 日本人はもっと外国に出て国際感覚を高めてほしいですし、日本の行政は外国人が居心地よく暮らせるように、地域の外国人サポート窓口をもっと充実させてほしいと思います。 ベトナム語の専門書を日本語で出版 external link この本のAmazonでの販売ページ(※クリック) 2015年に留学を終えた私はその年から国立ダナン大学 外国語大学の日本語・韓国語・タイ語学部長になりました。そして、2020年にドンア大学の副学長兼日本言語文化学部長になりました。 私は留学中に日本語教育やベトナム語の類別詞について研究しました。類別詞とは名詞の数え方です。例えば日本語で「一つ」「1枚」「1個」などと数えるときの「つ」「枚」「個」などが類別詞で、ベトナム語ではどのような類別詞があるのかを留学中の博士論文にまとめました。この論文を帰国後にさらに精査して書き直し、2023年に「現代ベトナム語の類別詞研究: 類別詞の本質とその意味・用法」という日本語の専門書を出版しました。Amazonでも購入できますので、ベトナム語の研究者や教師・学習者の方々に活用していただければ幸いです。 ドンア大学について 最後に副学長兼学部長としてドンア大学日本言語文化学部について紹介します。当学部では次のような点を重視して日本語教育を行っています。 日本語を「読む・書く・聞く・話す」ために必要な基礎学力と専門知識を養い、日本語で考える力や日本語コミュニケーション力の向上を目指しています。 日本文化を深く多角的に理解する人材を育てるため、インターンシップや文化交流、交換留学などのプログラムを充実させています。 ダナンの日系企業で見学や研修を行い、日本語を活かした仕事への理解や日本語コミュニケーション力の向上に努めています。 こうしたプログラムには、私や教師陣の留学経験も活かされています。

留学生・技能実習生・エンジニアをサポートするサイト

【在ベトナム日本国大使館後援】

  • Vol. 58 故郷で焼酎工場を作りたい

    今回の先輩 グエン・ヴァン・カインさん 2008年 高校卒業 2008年 ナムディン日本語日本文化学院入学 2010年 ナムディン学院卒業 2010年 建築の技能実習〈岡山県〉 2011年 JLPT・N3合格 2013年 JLPT・N2合格 2013年 ベトナムに帰国 2015年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2019年 南九州大学卒業 2019年 酒造メーカーに就職(正社員)〈宮崎県〉 2019年 日本人女性と結婚 〈1990年生まれ、ナムディン省出身〉 技能実習で貯めたお金で大学に留学し、日本の酒造会社に就職したカインさん。将来は故郷で焼酎工場を作るという目標を持つカインさんの留学生活の送り方や就職活動の動き方をリポートする。 〈このページの内容〉 • ベトナムで日本語学校に1年半 • 職歴に関する書類の内容に注意 • 技能実習 • 留学 • 学費とアルバイト • ハローワークで就職活動 • 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 • ボランティア日本語教室を活用 • 日本人女性と結婚 • 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナムで日本語学校に1年半 故郷のYÊN CƯỜNG村〈2014年〉 私はナムディン省の高校を卒業し大学進学も考えましたが、親せきの紹介でナムディン日本語日本文化学院に入りました。自宅から遠かったので、同じ村から入学した5人でアパートをシェアしました。学院では毎日15:40ごろまで授業を受け、夕食後にまた学院に戻ってみんなで3、4時間自習しました。 ナムディン学院で1年半勉強し、本当はすぐに留学したかったのですが、お金がかかるので、まず技能実習をすることにしました。人づてにホーチミンの送出機関を紹介してもらい、約60,000,000 VND(約29万円)で日本に行くことができました。ナムディン学院で日本語を十分に学んだので、送出機関には日本語教育費は支払いませんでした。 職歴に関する書類の内容に注意 ナムディン日本語日本文化学院のクリスマス会〈2013年〉 技能実習の在留資格を申請する際に気をつけたことがあります。技能実習は、生徒が母国で経験した職業の技術を日本で高めるという名目で行われていますが、実際は、大半のケースで求人内容に合わせて生徒の職歴を偽装して在留資格を申請しています。もし、その申請の際に提出した職歴の内容を知らず、技能実習が終わってから留学の在留資格を申請する際に違う職歴を提出すると、申請が許可されないことがあります。 私は職歴に関する書類作成を送出機関だけに任せず、ナムディン学院の先生と一緒に内容をよく考えて作成しました。そして、入管に提出した書類はすべてコピーして保管しました。 技能実習 職場の先輩日本人や後輩ベトナム人と旅行〈奈良で2013年〉 こうして、私は2010年10月に訪日し、岡山県備前市で技能実習を始めました。従業員40~50人ぐらいの会社で、実習生は私を含めて2人でした。仕事は住宅や工場の解体です。建築・解体の現場には気の荒い人が多いと言われていますが、私はベトナムで日本語を十分に勉強してから訪日したので、最初から職場でのコミュニケーションがうまくいき、皆さんに親切にしていただきました。60代の先輩が私に特に親切で、よく車で日帰り旅行に連れて行ってくださいました。奈良・京都・大阪には一緒に1泊で旅行しました。この方とは留学で再訪日してからも時々お会いしています。 技能実習で私の手取り給料は毎月10万~11万円でした。ここから毎月7~8万円ずつを実家に送金し、送金額は3年間で約250万円(約522,000,000 VND)になりました。訪日時の費用や母の通院費などを差し引いても約150万円残ったので、それをその後の留学の資金にしました。 留学 大学での実習(左の奥が私) 技能実習を終えた私は帰国してナムディン学院で講師をしました。技能実習の監理団体(受入組合)が送出機関への就職を紹介してくれましたが、ロイ校長の助言で学院に戻りました。ここで1年4カ月、後輩に教えながら自分も日本語学習を続けました。技能実習生には、「日本で学んだ技術を母国に移転する」という役割があるため、一定期間を経ないと留学の在留資格を申請しても許可されないからです。 その後、ナムディン学院と提携する南九州大学(宮崎県)の入試をハノイで受け、合格しました。技能実習の3年目に日本語能力試験(JLPT)・N2に合格していたので、作文の試験を免除され、面接(日本語)だけでした。私は日本の酒造技術を学び、それを応用してベトナムで焼酎を醸造したいと考え、食品関係の学部を選びました。留学して最初の約4カ月間はアルバイトをせず、勉強に集中しました。授業で専門用語も多く、予習・復習に時間がかかったからです。大学時代は授業以外に毎日3~5時間勉強しました。平日は毎日5時間のアルバイトがあったので、授業のないときや週末に勉強しました。 学費とアルバイト アルバイト仲間の日本人たちと過ごす休日〈宮崎市内で2019年〉 留学する際は、最初に約100万円を入学金や1年目の授業料などとして支払い、それ以外に約50万円を持って日本に来ました。4年間の留学費用は主にそのお金とアルバイトとでまかないましたが、それができた背景には下記のような要因がありました。 • 南九州大学では、外国人留学生の授業料が半額 • 2年目から同郷の後輩2人とアパートをシェア • 2年生のときに1年間で計360,000円の奨学金をもらえた(大学からの紹介) アルバイトは求人サイトで探しました。日本語をある程度話せたので、1軒目の居酒屋で採用され、そこで卒業まで働きました。いなかはのんびりしているので、お客さんたちが「どこから来たの?」「学生さんですか?」などと私に話しかけてくださり、お客さんや日本人のアルバイト仲間との会話で日本語が上達しました。仲間とは、勤務後に数人で飲みに行ったり休日にショッピングモールに出かけたりもしました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年のときの家計簿 ※100円=20,877 VND(※2021年4月2日現在) 収入(合計100,000円) アルバイト1件(居酒屋) 100,000円 支出(合計102,000円~107,000円) 家賃 12,000円 ※アパートを3人でシェア 授業料 50,000円 光熱費  7,000~10,000円 ※電気・ガス・水道代の合計 インターネット(Wi-Fi) 2000円 ※3人で分担 携帯電話 3000円 ※Y-mobile 食費  20,000円 雑費 8,000円~10,000円 ※衣類、教材、交通費など 毎月の差額・貯金 ▲2,000円~▲7,000円 ※長期休暇時のアルバイト料などで補てん ハローワークで就職活動 大学で焼酎の造り方を研究。就職活動も酒造会社に絞って応募。 私は大学2年のときに2週間、3年のときに10日間、同じ酒造会社でインターンシップをさせていただき、焼酎づくりの基礎を学びました。社長からは就職の内々定をいただいていましたが、4年生の初めに事情が変わりました。この会社が買収され、経営者が変わったのです。私の内々定も立ち消えになり、私は周囲より遅れて6月から就職活動を始めることになりました。 大学生の多くは「マイナビ」サイトを使って就活をしますが、私は公的機関であるハローワークのサイトで求人を探しました。狙いは、歴史があって従業員の少ない酒造会社です。「歴史=技術力と信用」、「少人数=酒造技術を全般的に学べる」という観点でした。ネットで調べてから6月末ごろ、地元のハローワーク事務所に行って履歴書を提出し、4社に申し込みました。すると、1社は外国人を採用していませんでしたが、残り3社は面接をしてくれました。 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 私が就職した岩倉酒造場〈2020年〉 外国人留学生の採用面接では避けて通れない関門があります。「あなたはいつまで日本で働くつもりですか」という質問です。私は日本で学んだ技術をベトナムに持ち帰って起業することが夢です。このことを面接で話すべきかどうか、私は大学の研究室の先生に相談しました。先生は「目標があるのなら、正直に答えた方がよいのではないか」という意見で、私もそうすることにしました。 2020年7月に受けた3社の面接で、やはりどの社からもこのことを聞かれました。福岡県の焼酎メーカーの担当者はわざわざ宮崎まで来てくださり、よい雰囲気で面接が進みました。しかし、終盤にこの質問が出て正直に答えると、面接の雰囲気が変わり、採用してもらえませんでした。しかし、残り2社は、私が正直に答えたのに内々定をくれました。私はその中で宮崎県西都(さいと)市の岩倉酒造場という会社にお世話になることにしました。約160年の歴史がある会社です。現在、働き始めて1年経ちましたが、とても働きやすい職場です。 ボランティア日本語教室を活用 和気町の日本語教室の先生の家で懇親会〈2013年〉 私は技能実習で日本に来た翌年にJLPT・N3、3年目にN2を取得しました。仕事が終わってから家で毎日2、3時間勉強したほか、ボランティア日本語教室に通いました。最初は監理団体の通訳の紹介で岡山市内の教室に通いましたが、授業が難しすぎました。そこで、レベル別にクラスがある倉敷市の教室に移り、毎週日曜に2時間の無料授業を受けました。家の近くの駅から倉敷までは電車で片道約80分(往復の電車賃は約2,000円)かかりましたが、将来の財産になるので時間とお金をかけました。 技能実習2年目には、岡山県和気(わけ)町でも無料日本語教室を見つけ、倉敷の教室も続けながら毎週火曜の夜に授業を受けました。和気の教室の先生は年に数回、自宅に生徒数人を招いて食事会をしてくれました。ここで知り合ったベトナム人仲間とは、テト(旧正月)の食事会をするなど交流が深まりました。 日本人女性と結婚 故郷で結婚式〈2019年〉 和気町の日本語教室の先生に私と年の近い女性がいました。この女性は勤務先の同僚のベトナム人が日本語を話せず困っている姿を見て、外国人に日本語を教えるボランティアに参加したそうです。女性はその後、仕事をやめてホーチミンに渡り、送出機関で2年間日本語を教えることになりました。同じころ、技能実習が終わってナムディンに戻っていた私は、SNS(メッセンジャー)でこの女性からのさまざまな相談に応じるようになりました。 私の留学2年目の2016年春、帰国して岡山に戻っていたこの女性が宮崎に遊びに来てくれました。すると、女性は宮崎の土地柄や気候が気に入ったと言って半年後に宮崎に引っ越して来て、私たちは付き合うようになりました。2019年11月、私たちはナムディンで約500人を招いて結婚式を挙げ、今年5月には子どもが生まれる予定です。将来は家族でナムディンで暮らす予定です。 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナム人のサッカーチーム(試合前の記念撮影)〈宮崎市内で2021年〉 私は2020年11月にベトナム人仲間とボランティア日本語教室を立ち上げました。毎週日曜に交代で実習生やエンジニアに日本語を教え、普段の生活サポートも行います。日本人の先生もいます。また、宮崎県には現在、ベトナム人のサッカーチームが8チームあります。私のチームには技能実習生やエンジニア、留学生がいます。毎週日曜に河川敷で練習し、ときどきメンバーの自宅で食事会をします。 このように充実した日本生活を送っていますが、数年後にはベトナムに帰って小さな焼酎醸造所を立ち上げることが私の目標です。大好きな日本でまだまだ多くのことを学びたいと思っています。 今回の先輩 (グエン・ヴァン・カイン)さん 2008年 高校卒業 2008年 ナムディン日本語日本文化学院入学 2010年 ナムディン学院卒業 2010年 建築の技能実習〈岡山県〉 2011年 JLPT・N3合格 2013年 JLPT・N2合格 2013年 ベトナムに帰国 2015年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2019年 南九州大学卒業 2019年 酒造メーカーに就職(正社員)〈宮崎県〉 2019年 日本人女性と結婚 〈1990年生まれ、ナムディン省出身〉 技能実習で貯めたお金で大学に留学し、日本の酒造会社に就職したカインさん。将来は故郷で焼酎工場を作るという目標を持つカインさんの留学生活の送り方や就職活動の動き方をリポートする。 〈このページの内容〉 • ベトナムで日本語学校に1年半 • 職歴に関する書類の内容に注意 • 技能実習 • 留学 • 学費とアルバイト • ハローワークで就職活動 • 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 • ボランティア日本語教室を活用 • 日本人女性と結婚 • 宮崎のベトナム人コミュニティ ベトナムで日本語学校に1年半 私はナムディン省の高校を卒業し大学進学も考えましたが、親せきの紹介でナムディン日本語日本文化学院に入りました。自宅から遠かったので、同じ村から入学した5人でアパートをシェアしました。学院では毎日15:40ごろまで授業を受け、夕食後にまた学院に戻ってみんなで3、4時間自習しました。 ナムディン学院で1年半勉強し、本当はすぐに留学したかったのですが、お金がかかるので、まず技能実習をすることにしました。人づてにホーチミンの送出機関を紹介してもらい、約60,000,000 VND(約29万円)で日本に行くことができました。ナムディン学院で日本語を十分に学んだので、送出機関には日本語教育費は支払いませんでした。 故郷のYÊN CƯỜNG村〈2014年〉 職歴に関する書類の内容に注意 技能実習の在留資格を申請する際に気をつけたことがあります。技能実習は、生徒が母国で経験した職業の技術を日本で高めるという名目で行われていますが、実際は、大半のケースで求人内容に合わせて生徒の職歴を偽装して在留資格を申請しています。もし、その申請の際に提出した職歴の内容を知らず、技能実習が終わってから留学の在留資格を申請する際に違う職歴を提出すると、申請が許可されないことがあります。 私は職歴に関する書類作成を送出機関だけに任せず、ナムディン学院の先生と一緒に内容をよく考えて作成しました。そして、入管に提出した書類はすべてコピーして保管しました。 ナムディン日本語日本文化学院のクリスマス会〈2013年〉 技能実習 こうして、私は2010年10月に訪日し、岡山県備前市で技能実習を始めました。従業員40~50人ぐらいの会社で、実習生は私を含めて2人でした。仕事は住宅や工場の解体です。建築・解体の現場には気の荒い人が多いと言われていますが、私はベトナムで日本語を十分に勉強してから訪日したので、最初から職場でのコミュニケーションがうまくいき、皆さんに親切にしていただきました。60代の先輩が私に特に親切で、よく車で日帰り旅行に連れて行ってくださいました。奈良・京都・大阪には一緒に1泊で旅行しました。この方とは留学で再訪日してからも時々お会いしています。 技能実習で私の手取り給料は毎月10万~11万円でした。ここから毎月7~8万円ずつを実家に送金し、送金額は3年間で約250万円(約522,000,000 VND)になりました。訪日時の費用や母の通院費などを差し引いても約150万円残ったので、それをその後の留学の資金にしました。 職場の先輩日本人や後輩ベトナム人と旅行〈奈良で2013年〉 留学 技能実習を終えた私は帰国してナムディン学院で講師をしました。技能実習の監理団体(受入組合)が送出機関への就職を紹介してくれましたが、ロイ校長の助言で学院に戻りました。ここで1年4カ月、後輩に教えながら自分も日本語学習を続けました。技能実習生には、「日本で学んだ技術を母国に移転する」という役割があるため、一定期間を経ないと留学の在留資格を申請しても許可されないからです。 その後、ナムディン学院と提携する南九州大学(宮崎県)の入試をハノイで受け、合格しました。技能実習の3年目に日本語能力試験(JLPT)・N2に合格していたので、作文の試験を免除され、面接(日本語)だけでした。私は日本の酒造技術を学び、それを応用してベトナムで焼酎を醸造したいと考え、食品関係の学部を選びました。留学して最初の約4カ月間はアルバイトをせず、勉強に集中しました。授業で専門用語も多く、予習・復習に時間がかかったからです。大学時代は授業以外に毎日3~5時間勉強しました。平日は毎日5時間のアルバイトがあったので、授業のないときや週末に勉強しました。 大学での実習(左の奥が私) 学費とアルバイト 留学する際は、最初に約100万円を入学金や1年目の授業料などとして支払い、それ以外に約50万円を持って日本に来ました。4年間の留学費用は主にそのお金とアルバイトとでまかないましたが、それができた背景には下記のような要因がありました。 • 南九州大学では、外国人留学生の授業料が半額 • 2年目から同郷の後輩2人とアパートをシェア • 2年生のときに1年間で計360,000円の奨学金をもらえた(大学からの紹介) アルバイトは求人サイトで探しました。日本語をある程度話せたので、1軒目の居酒屋で採用され、そこで卒業まで働きました。いなかはのんびりしているので、お客さんたちが「どこから来たの?」「学生さんですか?」などと私に話しかけてくださり、お客さんや日本人のアルバイト仲間との会話で日本語が上達しました。仲間とは、勤務後に数人で飲みに行ったり休日にショッピングモールに出かけたりもしました。 アルバイト仲間の日本人たちと過ごす休日〈宮崎市内で2019年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年のときの家計簿 ※100円=20,877 VND(※2021年4月2日現在) 収入(合計100,000円) アルバイト1件(居酒屋) 100,000円 支出(合計102,000円~107,000円) 家賃 12,000円 ※アパートを3人でシェア 授業料 50,000円 光熱費  7,000~10,000円 ※電気・ガス・水道代の合計 インターネット(Wi-Fi) 2000円 ※3人で分担 携帯電話 3000円 ※Y-mobile 食費  20,000円 雑費 8,000円~10,000円 ※衣類、教材、交通費など 毎月の差額・貯金 ▲2,000円~▲7,000円 ※長期休暇時のアルバイト料などで補てん ハローワークで就職活動 私は大学2年のときに2週間、3年のときに10日間、同じ酒造会社でインターンシップをさせていただき、焼酎づくりの基礎を学びました。社長からは就職の内々定をいただいていましたが、4年生の初めに事情が変わりました。この会社が買収され、経営者が変わったのです。私の内々定も立ち消えになり、私は周囲より遅れて6月から就職活動を始めることになりました。 大学生の多くは「マイナビ」サイトを使って就活をしますが、私は公的機関であるハローワークのサイトで求人を探しました。狙いは、歴史があって従業員の少ない酒造会社です。「歴史=技術力と信用」、「少人数=酒造技術を全般的に学べる」という観点でした。ネットで調べてから6月末ごろ、地元のハローワーク事務所に行って履歴書を提出し、4社に申し込みました。すると、1社は外国人を採用していませんでしたが、残り3社は面接をしてくれました。 大学で焼酎の造り方を研究。就職活動も酒造会社に絞って応募。 「あなたは日本でいつまで働く予定ですか?」 外国人留学生の採用面接では避けて通れない関門があります。「あなたはいつまで日本で働くつもりですか」という質問です。私は日本で学んだ技術をベトナムに持ち帰って起業することが夢です。このことを面接で話すべきかどうか、私は大学の研究室の先生に相談しました。先生は「目標があるのなら、正直に答えた方がよいのではないか」という意見で、私もそうすることにしました。 2020年7月に受けた3社の面接で、やはりどの社からもこのことを聞かれました。福岡県の焼酎メーカーの担当者はわざわざ宮崎まで来てくださり、よい雰囲気で面接が進みました。しかし、終盤にこの質問が出て正直に答えると、面接の雰囲気が変わり、採用してもらえませんでした。しかし、残り2社は、私が正直に答えたのに内々定をくれました。私はその中で宮崎県西都(さいと)市の岩倉酒造場という会社にお世話になることにしました。約160年の歴史がある会社です。現在、働き始めて1年経ちましたが、とても働きやすい職場です。 私が就職した岩倉酒造場〈2020年〉 ボランティア日本語教室を活用 私は技能実習で日本に来た翌年にJLPT・N3、3年目にN2を取得しました。仕事が終わってから家で毎日2、3時間勉強したほか、ボランティア日本語教室に通いました。最初は監理団体の通訳の紹介で岡山市内の教室に通いましたが、授業が難しすぎました。そこで、レベル別にクラスがある倉敷市の教室に移り、毎週日曜に2時間の無料授業を受けました。家の近くの駅から倉敷までは電車で片道約80分(往復の電車賃は約2,000円)かかりましたが、将来の財産になるので時間とお金をかけました。 技能実習2年目には、岡山県和気(わけ)町でも無料日本語教室を見つけ、倉敷の教室も続けながら毎週火曜の夜に授業を受けました。和気の教室の先生は年に数回、自宅に生徒数人を招いて食事会をしてくれました。ここで知り合ったベトナム人仲間とは、テト(旧正月)の食事会をするなど交流が深まりました。 和気町の日本語教室の先生の家で懇親会〈2013年〉 日本人女性と結婚 和気町の日本語教室の先生に私と年の近い女性がいました。この女性は勤務先の同僚のベトナム人が日本語を話せず困っている姿を見て、外国人に日本語を教えるボランティアに参加したそうです。女性はその後、仕事をやめてホーチミンに渡り、送出機関で2年間日本語を教えることになりました。同じころ、技能実習が終わってナムディンに戻っていた私は、SNS(メッセンジャー)でこの女性からのさまざまな相談に応じるようになりました。 私の留学2年目の2016年春、帰国して岡山に戻っていたこの女性が宮崎に遊びに来てくれました。すると、女性は宮崎の土地柄や気候が気に入ったと言って半年後に宮崎に引っ越して来て、私たちは付き合うようになりました。2019年11月、私たちはナムディンで約500人を招いて結婚式を挙げ、今年5月には子どもが生まれる予定です。将来は家族でナムディンで暮らす予定です。 故郷で結婚式〈2019年〉 宮崎のベトナム人コミュニティ 私は2020年11月にベトナム人仲間とボランティア日本語教室を立ち上げました。毎週日曜に交代で実習生やエンジニアに日本語を教え、普段の生活サポートも行います。日本人の先生もいます。また、宮崎県には現在、ベトナム人のサッカーチームが8チームあります。私のチームには技能実習生やエンジニア、留学生がいます。毎週日曜に河川敷で練習し、ときどきメンバーの自宅で食事会をします。 このように充実した日本生活を送っていますが、数年後にはベトナムに帰って小さな焼酎醸造所を立ち上げることが私の目標です。大好きな日本でまだまだ多くのことを学びたいと思っています。 ベトナム人のサッカーチーム(試合前の記念撮影)〈宮崎市内で2021年〉

    2021年04月09日

  • Vol. 57 N2取得し最初から大学に留学

    今回の先輩 ド・ミン・ハンさん 2014年 高校卒業 2014年 ナムディン日本語日本文化学院(8月) 2016年 ナムディン学院卒業(5月)、自習 2017年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2021年 南九州大学卒業(3月) 2021年 食品会社に就職(正社員)〈熊本県〉 〈1996年生まれ、ナムディン省出身〉 ベトナムで猛勉強してJLPT・N2を取得し、最初から大学で日本留学を始めたハンさん。訪日後はさらに日本語力を高め、日本での就職も決まった。ハンさんの日本語学習や就職活動について紹介する。 〈このページの内容〉 • ベトナムでJLPT・N2取得 • 最初から大学に留学 • 大学の授業は予習で乗り切る • 大学からのさまざまなサポート • 留学費用とアルバイト • 就職活動の流れ • 面接での受け答え • 日本で働くにあたって ベトナムでJLPT・N2取得 ナムディン学院の教室で〈2015年〉 ナムディン日本語日本文化学院 のロイ校長は私の親せきで、かねてロイ先生や父から「将来のために日本語を学習してはどうか」と勧められていました。私はベトナムの大学受験に失敗したこともあり、助言に従って日本語を勉強することにしました。 ナムディン学院には2014年8月~2016年5月に通い、2015年12月に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、翌年7月にはN2に合格しました。同校では、午前に授業を受け、自宅で昼食を食べたらまた登校して自習や運動をし、夕食後もまた学校に戻って自習しました。このようにして、授業以外に仲間と一緒に毎日6時間ぐらい自習しました。人生で一番勉強した時期で、先生方のご指導や仲間たちのお陰で続けられました。このときの努力がもとになって日本の大学に留学し日本で就職もできることになりました。 最初から大学に留学 日本に向かう際にノイバイ国際空港で〈2017年〉 私は宮崎県にある南九州大学・短大のナムディン事務所で小論文の試験とオンライン面接を受けて合格し、2017年4月に南九州大学で留学を始めました。日本語に囲まれて生活することで本物の日本語を身に付けることと日本で就職することが私の留学の目的です。しかし、最初は、日本人の話すスピードが速すぎて、あまり聞き取れませんでした。 ナムディン学院の先輩・後輩と食事会〈宮崎市内で2019年〉 私は菓子づくりが好きなので食品開発科学科を選びました。同じ年にナムディン学院から南九州大学に入学したのは私1人(短大には2人)でしたが、2年生と3年生に計3人の男子のナムディン学院卒業生がおり、3人で同じアパートに住んでいました。私は女子寮に住み、先輩たちのアパートに食事に招いてもらい、日本のことや勉強の仕方などをたくさん教えていただきました。寮では外国人は私だけでしたが、次第に寮の仲間とも仲良くなりました。 南九州大学・短大はナムディン学院と提携関係があり、大学・短大でのナムディン学院卒業生は計19人(2020年)いました。ほとんどが「後輩」ですが、ナムディン学院卒業生には、技能実習でお金を貯めてから再訪日して留学する人も多いので、「後輩」の中には私より年上の人もたくさんいました。 大学の授業は予習で乗り切る 大学の近くの公園で〈2017年4月〉 南九州大学での授業はすべて日本語で行われました。N2を取得して訪日しましたが、最初は、専門用語の多い授業は半分ぐらいしか理解できませんでした。私はこのままではだめだと思い、まず、授業の予習をていねいにやりました。先にテキストを読んで、分かる部分は頭に入れ、分からない日本語があれば調べました。そして、授業中に分からない言葉が出ればメモをして家で調べました。特に化学や微生物、発酵(はっこう)の授業では難しい言葉が多いので、予習も復習もしっかりやりました。ただし、日本語の力がついた3年生以降は復習だけで大丈夫でした。 日本語学習の教材はナムディン学院のオリジナルテキストと一般の動画(ドラもえん、ちびまる子ちゃん、ドラマ、ニュースなど)でした。動画は音も字幕も日本語のものが役に立ちました。 大学からのさまざまなサポート 南九州大学・短大のキャンパス〈2017年〉 日本での生活については、大学からのサポートもありました。日本では、外国人も含めて会社員は「厚生年金保険」に加入させられ、年金保険料を支払います。20歳以上の学生や自営業者は厚生年金保険ではなく「国民年金保険」に加入しなければなりません。しかし、学生については年金保険料の納付が猶予される「学生納付特例制度」があります。国民年金保険加入や特例制度の手続きを大学がサポートしてくれました。 南九州大学の学園祭〈2019年〉 2年生の終わりに寮からアパートに引っ越す際は、大学の職員の方々が荷物を運んでくれました。また、1年前からは、大学の学生支援課が卒業生からまだ使えそうな不要品を集め、それを必要とする留学生に分配する取り組みも始まりました。 研究室の先生(教授)も親切で、ある日「困っていることはないですか」と聞いてくれたので、アルバイト先での悩みや学費が重荷になっていることを話すと、やさしく励ましてくださいました。先生方と学生たちとの距離が近い大学で、学生1人1人へのケアが細かいと感じました。 留学費用とアルバイト 鹿児島県の水族館で〈2020年〉 南九州大学では、留学生の授業料は日本人の半額でした。半額での学費は入学金125,000円(約26,400,000ドン)、毎年の授業料589,000円(約124,200,000ドン)で、入学金と1年目の学費は訪日前に両親が大学に振り込んでくれました。また、大学生協とメールでやり取りをして住む家を決めてから訪日しました。 日本に来てからの主なアルバイト先は飲食店とスーパーでした。求人情報誌で回転寿司店や焼肉店に電話して面接を受けたり、友人(日本人、ベトナム人)の紹介で中華料理店やスーパーで勤務したりしました。焼肉店では日本人の友だちもでき、一緒に遊びに行ったり、私のアパートで食事会をしたりしました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年時の家計簿 ※100円=21,085ドン(2021年3月14日現在) 収入(合計90,000円~120,000円) アルバイト2件 90,000円~120,000円 ※飲食店、スーパー 支出(合計107,000円~119,000円) 家賃 25,000円 ※アパート、1人暮らし 授業料 50,000円 ※2年目から授業料も自己負担 水道・光熱費  6,000~8,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話など  6000円 ※格安SIMとモバイルWi-Fi 食費 15,000~20,000円 ※アルバイト先のスーパーが売れ残った惣菜をくれるときもある。 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨など 毎月の差額・貯金(平均 5,000円~10,000円) ※両親から1年間に50,000円~100,000円の仕送りを受けた。 ※夏休みや春休みのアルバイト収入は少し増える。 左:ナムディン学院の仲間と学院の理事長宅を訪問〈鹿児島で2018年〉;右:宮崎県内で観光〈2017年〉 就職活動の流れ マイナビの留学生向け求人サイト 就職活動については、大手人材会社「マイナビ」などの求人サイトで企業を探して会社説明会に参加し、自分に合うと思ったら履歴書を送りました。大学の就職課が履歴書の書き方の指導や面接練習をしてくれました。私は熊本県の食品製造販売会社に総合職として採用され、今年4月から働きます。九州各地に店舗を持つ大きな会社で、外国人技能実習生もたくさん働いています。私は約10社の説明会(オンラインを含む)に参加して4社の面接を受け、この会社に採用されました。 私が会社探しを始めたのは2020年1月、会社説明会へのエントリーを始めたのは2月、説明会は3~7月でした。新型コロナの影響で説明会が遅れた企業も多く、6~7月でも説明会はたくさんありました。面接などで福岡や大阪にも行ったので、就活に計約110,000円(約23,200,000ドン)かかりました。就職することになった会社については、3年生の終わりの2020年3月に熊本での説明会に参加し、同じ月に1回目の面接、5月に2回目の面接を受けました。説明会と最初の面接では、交通費の半分を会社が出してくれ、2回目の面接では全額出してくれました。宮崎から熊本へはバスによる移動(往復約10,000円)でした。 面接での受け答え 新型コロナの影響でオンライン面接も経験しました。明太子メーカーのオンライン面接では「当社にどうやって貢献できますか」と聞かれ、「売り上げアップに貢献します」と答えましたが、事前の準備不足で、どうやって売り上げアップを実現するかは説明できませんでした。この会社には採用してもらえませんでした。これはよく聞かれる質問なので、その会社の事業内容をよく調べて自分が実際にどのように貢献できるかをよく考え、答える練習をしてから面接に臨む方がよいと思います。 それ以外に面接で聞かれた主な事柄は、履歴書に書いたことや「入社したら何をがんばりたいか」「尊敬する人とその理由」などでした。 採用内定をいただいた会社の2次面接では、最初に自己PRがあり、私は履歴書に書いたことを中心に話しました。面接官からは、アルバイトのことと日本語学習のことを中心に質問されました。また、「最近気になったニュース」についても聞かれたので、新型コロナに関するベトナムの状況を話しました。 また、この会社の説明会では、自分の人生の浮き沈みを曲線で表し、それぞれの年に何があったのかを説明する場面がありました。参加者は十数人で1人の持ち時間は2分ぐらいです。私はベトナムの大学受験で落ちたことや、日本で日本人の友だちに助けられたことなどを話しました。 日本で働くにあたって 私の家族〈モックチャウで2015年〉 留学中は学費を工面するのが大変で、旅行にはほとんど行きませんでしたが、正社員になったら少し旅行もしたいと思っています。特に行きたいのは京都です。また、これからは学費を払わなくてもいいし給料も増えるので、ベトナムの両親にときどきお金を送りたいと思っています。 宮崎は人が親切で物価も安く、暮らしやすい町ですが、電車やバスが少なく交通が不便でした。今後は熊本県で働くので、大きな空港のある福岡に少し近くなります。日本で4年間暮らしてみて感じたことは、日本語を身に付ければ、日本で働く方が給料も高いですし、生活が便利で食べ物もおいしく、快適に暮らすことができます。今後、日本で何歳まで働くかはまだ決めていませんが、場合によってはずっと働き続けることも視野に入れて仕事に取り組んでいきたいと思います。 今回の先輩 (ド・ミン・ハン)さん 2014年 高校卒業 2014年 ナムディン日本語日本文化学院(8月) 2016年 ナムディン学院卒業(5月)、自習 2017年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2021年 南九州大学卒業(3月) 2021年 食品会社に就職(正社員)〈熊本県〉 〈1996年生まれ、ナムディン省出身〉 ベトナムで猛勉強してJLPT・N2を取得し、最初から大学で日本留学を始めたハンさん。訪日後はさらに日本語力を高め、日本での就職も決まった。ハンさんの日本語学習や就職活動について紹介する。 〈このページの内容〉 • ベトナムでJLPT・N2取得 • 最初から大学に留学 • 大学の授業は予習で乗り切る • 大学からのさまざまなサポート • 留学費用とアルバイト • 就職活動の流れ • 面接での受け答え • 日本で働くにあたって ベトナムでJLPT・N2取得 ナムディン日本語日本文化学院 のロイ校長は私の親せきで、かねてロイ先生や父から「将来のために日本語を学習してはどうか」と勧められていました。私はベトナムの大学受験に失敗したこともあり、助言に従って日本語を勉強することにしました。 ナムディン学院には2014年8月~2016年5月に通い、2015年12月に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、翌年7月にはN2に合格しました。同校では、午前に授業を受け、自宅で昼食を食べたらまた登校して自習や運動をし、夕食後もまた学校に戻って自習しました。このようにして、授業以外に仲間と一緒に毎日6時間ぐらい自習しました。人生で一番勉強した時期で、先生方のご指導や仲間たちのお陰で続けられました。このときの努力がもとになって日本の大学に留学し日本で就職もできることになりました。 ナムディン学院の教室で〈2015年 最初から大学に留学 私は宮崎県にある南九州大学・短大のナムディン事務所で小論文の試験とオンライン面接を受けて合格し、2017年4月に南九州大学で留学を始めました。日本語に囲まれて生活することで本物の日本語を身に付けることと日本で就職することが私の留学の目的です。しかし、最初は、日本人の話すスピードが速すぎて、あまり聞き取れませんでした。 日本に向かう際にノイバイ国際空港で〈2017年〉 私は菓子づくりが好きなので食品開発科学科を選びました。同じ年にナムディン学院から南九州大学に入学したのは私1人(短大には2人)でしたが、2年生と3年生に計3人の男子のナムディン学院卒業生がおり、3人で同じアパートに住んでいました。私は女子寮に住み、先輩たちのアパートに食事に招いてもらい、日本のことや勉強の仕方などをたくさん教えていただきました。寮では外国人は私だけでしたが、次第に寮の仲間とも仲良くなりました。 南九州大学・短大はナムディン学院と提携関係があり、大学・短大でのナムディン学院卒業生は計19人(2020年)いました。ほとんどが「後輩」ですが、ナムディン学院卒業生には、技能実習でお金を貯めてから再訪日して留学する人も多いので、「後輩」の中には私より年上の人もたくさんいました。 ナムディン学院の先輩・後輩と食事会〈宮崎市内で2019年〉 大学の授業は予習で乗り切る 南九州大学での授業はすべて日本語で行われました。N2を取得して訪日しましたが、最初は、専門用語の多い授業は半分ぐらいしか理解できませんでした。私はこのままではだめだと思い、まず、授業の予習をていねいにやりました。先にテキストを読んで、分かる部分は頭に入れ、分からない日本語があれば調べました。そして、授業中に分からない言葉が出ればメモをして家で調べました。特に化学や微生物、発酵(はっこう)の授業では難しい言葉が多いので、予習も復習もしっかりやりました。ただし、日本語の力がついた3年生以降は復習だけで大丈夫でした。 日本語学習の教材はナムディン学院のオリジナルテキストと一般の動画(ドラもえん、ちびまる子ちゃん、ドラマ、ニュースなど)でした。動画は音も字幕も日本語のものが役に立ちました。 大学の近くの公園で〈2017年4月〉 大学からのさまざまなサポート 日本での生活については、大学からのサポートもありました。日本では、外国人も含めて会社員は「厚生年金保険」に加入させられ、年金保険料を支払います。20歳以上の学生や自営業者は厚生年金保険ではなく「国民年金保険」に加入しなければなりません。しかし、学生については年金保険料の納付が猶予される「学生納付特例制度」があります。国民年金保険加入や特例制度の手続きを大学がサポートしてくれました。 南九州大学・短大のキャンパス〈2017年〉 2年生の終わりに寮からアパートに引っ越す際は、大学の職員の方々が荷物を運んでくれました。また、1年前からは、大学の学生支援課が卒業生からまだ使えそうな不要品を集め、それを必要とする留学生に分配する取り組みも始まりました。 研究室の先生(教授)も親切で、ある日「困っていることはないですか」と聞いてくれたので、アルバイト先での悩みや学費が重荷になっていることを話すと、やさしく励ましてくださいました。先生方と学生たちとの距離が近い大学で、学生1人1人へのケアが細かいと感じました。 南九州大学の学園祭〈2019年〉 留学費用とアルバイト 南九州大学では、留学生の授業料は日本人の半額でした。半額での学費は入学金125,000円(約26,400,000ドン)、毎年の授業料589,000円(約124,200,000ドン)で、入学金と1年目の学費は訪日前に両親が大学に振り込んでくれました。また、大学生協とメールでやり取りをして住む家を決めてから訪日しました。 日本に来てからの主なアルバイト先は飲食店とスーパーでした。求人情報誌で回転寿司店や焼肉店に電話して面接を受けたり、友人(日本人、ベトナム人)の紹介で中華料理店やスーパーで勤務したりしました。焼肉店では日本人の友だちもでき、一緒に遊びに行ったり、私のアパートで食事会をしたりしました。 鹿児島県の水族館で〈2020年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学3年時の家計簿 ※100円=21,085ドン(2021年3月14日現在) 収入(合計90,000円~120,000円) アルバイト2件 90,000円~120,000円 ※飲食店、スーパー 支出(合計107,000円~119,000円) 家賃 25,000円 ※アパート、1人暮らし 授業料 50,000円 ※2年目から授業料も自己負担 水道・光熱費  6,000~8,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話など  6000円 ※格安SIMとモバイルWi-Fi 食費 15,000~20,000円 ※アルバイト先のスーパーが売れ残った惣菜をくれるときもある。 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨など 毎月の差額・貯金(平均 5,000円~10,000円) ※両親から1年間に50,000円~100,000円の仕送りを受けた。 ※夏休みや春休みのアルバイト収入は少し増える。 左:ナムディン学院の仲間と学院の理事長宅を訪問〈鹿児島で2018年〉;右:宮崎県内で観光〈2017年〉 就職活動の流れ 就職活動については、大手人材会社「マイナビ」などの求人サイトで企業を探して会社説明会に参加し、自分に合うと思ったら履歴書を送りました。大学の就職課が履歴書の書き方の指導や面接練習をしてくれました。私は熊本県の食品製造販売会社に総合職として採用され、今年4月から働きます。九州各地に店舗を持つ大きな会社で、外国人技能実習生もたくさん働いています。私は約10社の説明会(オンラインを含む)に参加して4社の面接を受け、この会社に採用されました。 私が会社探しを始めたのは2020年1月、会社説明会へのエントリーを始めたのは2月、説明会は3~7月でした。新型コロナの影響で説明会が遅れた企業も多く、6~7月でも説明会はたくさんありました。面接などで福岡や大阪にも行ったので、就活に計約110,000円(約23,200,000ドン)かかりました。就職することになった会社については、3年生の終わりの2020年3月に熊本での説明会に参加し、同じ月に1回目の面接、5月に2回目の面接を受けました。説明会と最初の面接では、交通費の半分を会社が出してくれ、2回目の面接では全額出してくれました。宮崎から熊本へはバスによる移動(往復約10,000円)でした。 マイナビの留学生向け求人サイト 面接での受け答え 新型コロナの影響でオンライン面接も経験しました。明太子メーカーのオンライン面接では「当社にどうやって貢献できますか」と聞かれ、「売り上げアップに貢献します」と答えましたが、事前の準備不足で、どうやって売り上げアップを実現するかは説明できませんでした。この会社には採用してもらえませんでした。これはよく聞かれる質問なので、その会社の事業内容をよく調べて自分が実際にどのように貢献できるかをよく考え、答える練習をしてから面接に臨む方がよいと思います。 それ以外に面接で聞かれた主な事柄は、履歴書に書いたことや「入社したら何をがんばりたいか」「尊敬する人とその理由」などでした。 採用内定をいただいた会社の2次面接では、最初に自己PRがあり、私は履歴書に書いたことを中心に話しました。面接官からは、アルバイトのことと日本語学習のことを中心に質問されました。また、「最近気になったニュース」についても聞かれたので、新型コロナに関するベトナムの状況を話しました。 また、この会社の説明会では、自分の人生の浮き沈みを曲線で表し、それぞれの年に何があったのかを説明する場面がありました。参加者は十数人で1人の持ち時間は2分ぐらいです。私はベトナムの大学受験で落ちたことや、日本で日本人の友だちに助けられたことなどを話しました。 日本で働くにあたって 留学中は学費を工面するのが大変で、旅行にはほとんど行きませんでしたが、正社員になったら少し旅行もしたいと思っています。特に行きたいのは京都です。また、これからは学費を払わなくてもいいし給料も増えるので、ベトナムの両親にときどきお金を送りたいと思っています。 宮崎は人が親切で物価も安く、暮らしやすい町ですが、電車やバスが少なく交通が不便でした。今後は熊本県で働くので、大きな空港のある福岡に少し近くなります。日本で4年間暮らしてみて感じたことは、日本語を身に付ければ、日本で働く方が給料も高いですし、生活が便利で食べ物もおいしく、快適に暮らすことができます。今後、日本で何歳まで働くかはまだ決めていませんが、場合によってはずっと働き続けることも視野に入れて仕事に取り組んでいきたいと思います。 私の家族〈モックチャウで2015年〉

    2021年04月02日

  • Vol. 56 強制帰国寸前で救出!

    今回の先輩 トー・ティ・ヒエンさん 2000年 高校中退、家業手伝い〈タイビン県〉 2001年 靴製造会社で勤務〈ハイフォン県〉 2007年 長女出産、縫製工場勤務〈タイビン県〉 2018年 送出機関登録 2019年 2月:訪日→講習→技能実習〈奈良県〉 2019年 9月:OTITによって保護 2019年 12月:新しい職場で技能実習開始〈岩手県〉 〈1984年生まれ、タイビン省出身〉 社長から「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた技能実習生ヒエンさん。送出機関社長もやってきて「あなたをベトナムに連れて帰る」と迫られたが、強制帰国寸前でOTIT(外国人技能実習機構)が出動!ヒエンさんは救出され、転職先も紹介してもらえることに。 〈このページの内容〉 • 娘の学費を稼ぐために日本へ • 訪日前の借金とその後の返済 • 過酷な労働と残業代不払い • 「もう会社に来なくてもよい • 絶望の帰国通告 • 「外国人実習生支援」にSOS • 外国人技能実習機構(OTIT)登場! • 新職場は別世界 娘の学費を稼ぐために日本へ 私の今の実習先〈2020年〉 私は、家が貧しかったので、高校2年の初めに学校を中退して母を手伝い、翌年からハイフォンの靴製造会社で働きました。当時は高校に行く人が少なく、私の周りでは半分もいませんでした。2006年に職場の地元の男性と結婚して妊娠し、退職しましたが、半年で離婚し、2007年1月に女児を出産しました。その9カ月後、縫製工場で仕事を始めました。娘は現在、中学3年生で、私の両親と一緒に暮らしています。娘の成績がよいので、私は娘の今後の学費を稼ぐために技能実習を志望しました。 訪日前の借金とその後の返済 今の職場での仕事〈岩手県で2020年〉 私は友人に紹介してもらったハノイの送出機関に登録し、支払いのために銀行から160,000,000ドン(約756,000円)を借りました。また、父の肺がんの治療のために、それとは別に140,000,000ドンを借りました。日本に来てから最初の職場で6カ月、今の職場で15カ月働き、借金はほぼ全額返済できました。今後は、技能実習の残り期間で娘の将来の学費をなるべく貯めたいです。また、3年間の実習が終わったら、技能実習3号として今の職場に戻りたいと希望しています。 前の職場では残業代をもらえず、毎月6、7万円しか実家に送金できませんでしたが、今の職場では毎月10万円送っています。父は病気、母も高齢です。自分たちの田畑を人に貸しているので、米や野菜は無料ですが、現金がないので、私の仕送りで3人の生活費と娘の学費をまかなっています。 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,240 VND(2021年3月11日現在) 手取り給料(平均140,000円) 手取り給料 137,000円~142,000円 ※税金、社会保険料、寮費を引いた後の手取り額 ※このうち寮費は11,000円(水道・光熱費・Wi-Fi含む) 支出(平均 35,000円~40,000円) 食費 30,000円 ※自炊 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨、医薬品など ※ 差額・貯金(平均100,000円) 過酷な労働と残業代不払い 残業代が計上されなかった給与明細。「当時を思い出すと、今でも悔しい」。 私は現在、二つ目の実習先で働いていますが、最初の職場ではつらい目にあいました。それは奈良県の縫製工場で、私の手取り給料は88,000円(約18,700,000ドン)しかありませんでした。毎日17:00に定時の仕事が終わり、その後2、3時間(長いときは5時間)残業をしましたが、残業代をもらえませんでした。社長の理屈は「本来は200枚を8時間以内に縫わなければならない。200枚縫い終わるまでは残業にカウントしない」というものでした。 しかし、例えば男性用セーターを1人で縫う場合、そで、肩、わき、えりなどを縫い分けると、頑張っても1枚5分かかります。100枚で500分。これだけでも定時には終わりません。3時間残業しても1日150枚が精一杯ですし、息つく暇もなく縫うので、毎日くたくたでした。送出機関から「社長はいい人で、手取り170,000円」と説明されて応募しましたが、事実は全く違いました。 「もう会社に来なくてもよい」 当時の実習先〈2019年〉 この会社で働き始めて間もなく、近所のベトナム人実習生と知り合い、私の職場で技能実習を終えて帰国した先輩2人をSNSで紹介してくれました。先輩たちに聞くと、「残業代はゼロではなかったが、本来の額より少なかった」とのことでした。先輩たちもかわいそうでしたが、私たちはさらにひどい条件です。しかし、日本語ができないので社長に抗議もできず、悔しい思いで仕事を続けていたある日、社長から思わぬことを言われました。 私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。その後、私から相談を受けた監理団体(組合)の通訳が社長と話をし、私は「1日200枚縫えない場合は、給料は受け取らない」という趣旨の誓約書(ベトナム語)を書かされて仕事に復帰しました。実習生3人のうち「会社に来なくていい」と言われたのは私だけでした。 絶望の帰国通告 送出機関社長に書かされた文書〈2019年9月〉 そして、事態はさらに悪化します。9月に送出機関の社長がハノイからやって来ました。少し前に発生した不良品が原因のようでした。社長の指示通りの針で縫ったところ、針の大きさが間違っており、100枚返品されたのです。送出機関の若い女性社長は私たち実習生3人と会社で話をし、その後、私だけを寮に連れて行きました。寮に着くなり社長は「会社はあなたをいらないと言っている。一緒に帰国しよう」と切り出しました。私は声を出して泣きました。これまでの経緯を説明し、一生懸命働いたのになぜ自分だけ帰されるのかと抗議しましたが、社長からは慰めの言葉もありませんでした。 それどころか、社長は「自分の希望でベトナムに帰国する」という文書を書くように私に言いました。それを書けば、未払いの3カ月分の給料を支払うとのことです。私は指示されるまま次のような趣旨の文書を書きました。「私は会社でいろいろな問題を起こし、不良品もよく出しました。現在、会社は私を不要としています。私は帰国しますので、6~8月分の給料を支払ってください」。社長は「ベトナムに帰国し、1、2カ月待てばまた新しい仕事が見つかって日本に戻れる」と言いましたが、信用できません。また、このように書かされましたが、実際は私の責任で不良品を出したことはありませんでした。 「外国人実習生支援」にSOS 榑松さんがOTITに送ってくれた申告書の一部〈2019年9月〉 私は文書を書いて職場に戻りましたが、昼休みになっても昼食がのどを通りませんでした。終業後も送出機関社長に公園に連れて行かれ、「ベトナムに戻って少し待てば、新しい仕事が見つかる」と午前と同じことを言われました。しかし、本当に新しい実習先を紹介してもらえる保証はありませんし、追加料金を要求される可能性もあります。私は「私は大きな借金をして日本に来たし、仕事もしっかりやっている。監理団体がほかの仕事を見つけるまで日本で待ちたい。帰国はしません」と言い残して寮に帰りました。 その夜、送出機関社長は私の失踪を警戒したのか、ホテルではなく私たち3人の寮に泊まりました。私は寝室である人にSOSメッセージを送りました。送った相手は「外国人実習生支援」という支援団体の榑松(くれまつ)代表で、不当な処遇をされた実習生を何人も助けてきた人です。実は、5月に「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた直後、会社の先輩から榑松さんを紹介され、通訳(ベトナム人留学生のボランティア)も入ってSNSでやり取りを続けていたのです。 私は榑松さんに切迫した状況を伝えました。榑松さんからは「明日、OTITが会社に行く。しかし、もしその前に空港に連れて行かれた場合は、出国審査の入管職員に私の名刺を見せて『本当は帰国したくない』と伝えなさい」と返事があり、榑松さんの名刺の写真を送ってくれました。榑松さんはその直後、OTITにFAXで9枚の申告書と資料を送り、私を助け出すように依頼してくれました。 外国人技能実習機構(OTIT)登場! 翌朝、私はどきどきしながら出勤すると、約2時間後、OTITの担当者 2人が本当に会社に来ました!担当者の1人は縫製会社社長と話し、もう1人(女性)は私を寮に連れて行きました。寮には監理団体理事長も来ました。私はOTITから電話通訳を介して「あなたは無理に帰国させられるかも知れないので、私たちがあなたを保護します。あなたは今日からホテルに住み、私たちがほかの勤務先を探します」と説明されました。私は荷造りをし、OTITの車で大阪市内のホテルに移されました。 ホテルに行く前に会社に戻り、会社から未払いの3カ月分の給料を受け取りました。社長は深刻な顔をしていました。OTITの担当者は4人に増え、そのうち2人が監理団体理事長と話をしていました。理事長も深刻な表情でした。私は社長に「短い間でしたが、どうもありがとうございました。お元気で」とあいさつしましたが、社長は無言でした。その後、この会社の技能実習計画は取り消され、ほかの2人の実習生も別の職場に移されました。 新職場は別世界 左:寮の自分のベッド。毎晩、ここから娘に電話する; 右:寮の台所 約2カ月半後、私はOTITや榑松さんたちのおかげで岩手県の「ケーエスファクトリー」に移籍しました。同社は約20名の職場で、有名ブランドの婦人服の縫製を行っており、ベトナム人女性5人が技能実習をしています。監理団体は東京の「ワールドパワー協同組合」で、担当のベトナム人通訳が頻繁に来て、私たちの状況を聞いてくれます。 新型コロナがなければ、夏には社長が実習生たちに浴衣を買い与えて地元の夏祭りに連れて行ったり、春には車で花見に連れて行ってくれたりするそうです。今の職場は前の職場と環境も給料もまったく違います。私を助けてくれた「外国人実習生支援」やOTIT、そして今の社長にとても感謝しています。 【編集部からのアドバイス】 ❶ ヒエンさんの転籍先を紹介した監理団体は技能実習生を紹介する際、その会社が▽法律通り残業代を支払う▽技能実習日誌や管理簿をきちんとつける▽平均的な寮生活を提供する――などを条件としています。この組合の紹介先で技能実習をしたい場合は、問い合わせてみてください。 (監理団体)ワールドパワー協同組合 world-power@helen.ocn.ne.jp ※メール(ベトナム語)で問い合わせができます。翻訳に少し時間がかかります。 ❷ 強制帰国は違法 技能実習生の意に反して計画途中で帰国させることは違法です。実習生が技能実習の継続を希望している場合、受入会社や監理団体は責任を持って次の実習先を確保しなければなりません(法的義務)。 ❸ 実習先での問題はまず所属する監理団体に相談し、それで解決しない場合は、必ず外国人技能実習機構(OTIT)に相談してください。ベトナム語で電話(0120-250-168)で相談できますが、相談内容が深刻な場合は、紙に書いてOTITを訪問するか郵送する方が効果的です。 ❹ 万一、OTITに相談しても解決しない場合は、下記のような民間の支援団体もあります。 外国人実習生支援(Facebook) 日越ともいき支援会 会社の近くの桜〈岩手県で2020年〉 寮では勉強机も広々〈岩手県で2020年〉 今回の先輩 (トー・ティ・ヒエン)さん 2000年 高校中退、家業手伝い〈タイビン〉 2001年 靴製造会社で勤務〈ハイフォン〉 2007年 長女出産、縫製工場勤務〈タイビン〉 2018年 送出機関登録 2019年 2月:訪日→講習→技能実習〈奈良〉 2019年 9月:OTITによって保護 2019年 12月:新しい職場で技能実習開始〈岩手〉 〈1984年生まれ、タイビン省出身〉 社長から「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた技能実習生ヒエンさん。送出機関社長もやってきて「あなたをベトナムに連れて帰る」と迫られたが、強制帰国寸前でOTIT(外国人技能実習機構)が出動!ヒエンさんは救出され、転職先も紹介してもらえることに。 〈このページの内容〉 • 娘の学費を稼ぐために日本へ • 訪日前の借金とその後の返済 • 過酷な労働と残業代不払い • 「もう会社に来なくてもよい」 • 絶望の帰国通告 • 「外国人実習生支援」にSOS • 外国人技能実習機構(OTIT)登場! • 新職場は別世界 娘の学費を稼ぐために日本へ 私は、家が貧しかったので、高校2年の初めに学校を中退して母を手伝い、翌年からハイフォンの靴製造会社で働きました。当時は高校に行く人が少なく、私の周りでは半分もいませんでした。2006年に職場の地元の男性と結婚して妊娠し、退職しましたが、半年で離婚し、2007年1月に女児を出産しました。その9カ月後、縫製工場で仕事を始めました。娘は現在、中学3年生で、私の両親と一緒に暮らしています。娘の成績がよいので、私は娘の今後の学費を稼ぐために技能実習を志望しました。 私の今の実習先〈2020年〉 訪日前の借金とその後の返済 私は友人に紹介してもらったハノイの送出機関に登録し、支払いのために銀行から160,000,000ドン(約756,000円)を借りました。また、父の肺がんの治療のために、それとは別に140,000,000ドンを借りました。日本に来てから最初の職場で6カ月、今の職場で15カ月働き、借金はほぼ全額返済できました。今後は、技能実習の残り期間で娘の将来の学費をなるべく貯めたいです。また、3年間の実習が終わったら、技能実習3号として今の職場に戻りたいと希望しています。 前の職場では残業代をもらえず、毎月6、7万円しか実家に送金できませんでしたが、今の職場では毎月10万円送っています。父は病気、母も高齢です。自分たちの田畑を人に貸しているので、米や野菜は無料ですが、現金がないので、私の仕送りで3人の生活費と娘の学費をまかなっています。 今の職場での仕事〈岩手県で2020年〉 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,240 VND(2021年3月11日現在) 手取り給料(平均140,000円) 手取り給料 137,000円~142,000円 ※税金、社会保険料、寮費を引いた後の手取り額 ※このうち寮費は11,000円(水道・光熱費・Wi-Fi含む) 支出(平均 35,000円~40,000円) 食費 30,000円 ※自炊 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨、医薬品など ※ 差額・貯金(平均100,000円) 過酷な労働と残業代不払い 私は現在、二つ目の実習先で働いていますが、最初の職場ではつらい目にあいました。それは奈良県の縫製工場で、私の手取り給料は88,000円(約18,700,000ドン)しかありませんでした。毎日17:00に定時の仕事が終わり、その後2、3時間(長いときは5時間)残業をしましたが、残業代をもらえませんでした。私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。社長の理屈は「本来は200枚を8時間以内に縫わなければならない。200枚縫い終わるまでは残業にカウントしない」というものでした。 しかし、例えば男性用セーターを1人で縫う場合、そで、肩、わき、えりなどを縫い分けると、頑張っても1枚5分かかります。100枚で500分。これだけでも定時には終わりません。3時間残業しても1日150枚が精一杯ですし、息つく暇もなく縫うので、毎日くたくたでした。送出機関から「社長はいい人で、手取り170,000円」と説明されて応募しましたが、事実は全く違いました。 残業代が計上されなかった給与明細。「当時を思い出すと、今でも悔しい」。 「もう会社に来なくてもよい」 この会社で働き始めて間もなく、近所のベトナム人実習生と知り合い、私の職場で技能実習を終えて帰国した先輩2人をSNSで紹介してくれました。先輩たちに聞くと、「残業代はゼロではなかったが、本来の額より少なかった」とのことでした。先輩たちもかわいそうでしたが、私たちはさらにひどい条件です。しかし、日本語ができないので社長に抗議もできず、悔しい思いで仕事を続けていたある日、社長から思わぬことを言われました。 私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。その後、私から相談を受けた監理団体(組合)の通訳が社長と話をし、私は「1日200枚縫えない場合は、給料は受け取らない」という趣旨の誓約書(ベトナム語)を書かされて仕事に復帰しました。実習生3人のうち「会社に来なくていい」と言われたのは私だけでした。 当時の実習先〈2019年〉 絶望の帰国通告 そして、事態はさらに悪化します。9月に送出機関の社長がハノイからやって来ました。少し前に発生した不良品が原因のようでした。社長の指示通りの針で縫ったところ、針の大きさが間違っており、100枚返品されたのです。送出機関の若い女性社長は私たち実習生3人と会社で話をし、その後、私だけを寮に連れて行きました。寮に着くなり社長は「会社はあなたをいらないと言っている。一緒に帰国しよう」と切り出しました。私は声を出して泣きました。これまでの経緯を説明し、一生懸命働いたのになぜ自分だけ帰されるのかと抗議しましたが、社長からは慰めの言葉もありませんでした。 それどころか、社長は「自分の希望でベトナムに帰国する」という文書を書くように私に言いました。それを書けば、未払いの3カ月分の給料を支払うとのことです。私は指示されるまま次のような趣旨の文書を書きました。「私は会社でいろいろな問題を起こし、不良品もよく出しました。現在、会社は私を不要としています。私は帰国しますので、6~8月分の給料を支払ってください」。社長は「ベトナムに帰国し、1、2カ月待てばまた新しい仕事が見つかって日本に戻れる」と言いましたが、信用できません。また、このように書かされましたが、実際は私の責任で不良品を出したことはありませんでした。 送出機関社長に書かされた文書〈2019年9月〉 「外国人実習生支援」にSOS 私は文書を書いて職場に戻りましたが、昼休みになっても昼食がのどを通りませんでした。終業後も送出機関社長に公園に連れて行かれ、「ベトナムに戻って少し待てば、新しい仕事が見つかる」と午前と同じことを言われました。しかし、本当に新しい実習先を紹介してもらえる保証はありませんし、追加料金を要求される可能性もあります。私は「私は大きな借金をして日本に来たし、仕事もしっかりやっている。監理団体がほかの仕事を見つけるまで日本で待ちたい。帰国はしません」と言い残して寮に帰りました。 その夜、送出機関社長は私の失踪を警戒したのか、ホテルではなく私たち3人の寮に泊まりました。私は寝室である人にSOSメッセージを送りました。送った相手は「外国人実習生支援」という支援団体の榑松(くれまつ)代表で、不当な処遇をされた実習生を何人も助けてきた人です。実は、5月に「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた直後、会社の先輩から榑松さんを紹介され、通訳(ベトナム人留学生のボランティア)も入ってSNSでやり取りを続けていたのです。 私は榑松さんに切迫した状況を伝えました。榑松さんからは「明日、OTITが会社に行く。しかし、もしその前に空港に連れて行かれた場合は、出国審査の入管職員に私の名刺を見せて『本当は帰国したくない』と伝えなさい」と返事があり、榑松さんの名刺の写真を送ってくれました。榑松さんはその直後、OTITにFAXで9枚の申告書と資料を送り、私を助け出すように依頼してくれました。 榑松さんがOTITに送ってくれた申告書の一部〈2019年9月〉 外国人技能実習機構(OTIT)登場! 翌朝、私はどきどきしながら出勤すると、約2時間後、OTITの担当者 2人が本当に会社に来ました!担当者の1人は縫製会社社長と話し、もう1人(女性)は私を寮に連れて行きました。寮には監理団体理事長も来ました。私はOTITから電話通訳を介して「あなたは無理に帰国させられるかも知れないので、私たちがあなたを保護します。あなたは今日からホテルに住み、私たちがほかの勤務先を探します」と説明されました。私は荷造りをし、OTITの車で大阪市内のホテルに移されました。 ホテルに行く前に会社に戻り、会社から未払いの3カ月分の給料を受け取りました。社長は深刻な顔をしていました。OTITの担当者は4人に増え、そのうち2人が監理団体理事長と話をしていました。理事長も深刻な表情でした。私は社長に「短い間でしたが、どうもありがとうございました。お元気で」とあいさつしましたが、社長は無言でした。その後、この会社の技能実習計画は取り消され、ほかの2人の実習生も別の職場に移されました。 新職場は別世界 約2カ月半後、私はOTITや榑松さんたちのおかげで岩手県の「ケーエスファクトリー」に移籍しました。同社は約20名の職場で、有名ブランドの婦人服の縫製を行っており、ベトナム人女性5人が技能実習をしています。監理団体は東京の「ワールドパワー協同組合」で、担当のベトナム人通訳が頻繁に来て、私たちの状況を聞いてくれます。 新型コロナがなければ、夏には社長が実習生たちに浴衣を買い与えて地元の夏祭りに連れて行ったり、春には車で花見に連れて行ってくれたりするそうです。今の職場は前の職場と環境も給料もまったく違います。私を助けてくれた「外国人実習生支援」やOTIT、そして今の社長にとても感謝しています。 左:寮の自分のベッド。毎晩、ここから娘に電話する; 右:寮の台所 【編集部からのアドバイス】 ❶ ヒエンさんの転籍先を紹介した監理団体は技能実習生を紹介する際、その会社が▽法律通り残業代を支払う▽技能実習日誌や管理簿をきちんとつける▽平均的な寮生活を提供する――などを条件としています。この組合の紹介先で技能実習をしたい場合は、問い合わせてみてください。 (監理団体)ワールドパワー協同組合 world-power@helen.ocn.ne.jp ※メール(ベトナム語)で問い合わせができます。翻訳に少し時間がかかります。 ❷ 強制帰国は違法 技能実習生の意に反して計画途中で帰国させることは違法です。実習生が技能実習の継続を希望している場合、受入会社や監理団体は責任を持って次の実習先を確保しなければなりません(法的義務)。 ❸ 実習先での問題はまず所属する監理団体に相談し、それで解決しない場合は、必ず外国人技能実習機構(OTIT)に相談してください。ベトナム語で電話(0120-250-168)で相談できますが、相談内容が深刻な場合は、紙に書いてOTITを訪問するか郵送する方が効果的です。 ❹ 万一、OTITに相談しても解決しない場合は、下記のような民間の支援団体もあります。 外国人実習生支援(Facebook) 日越ともいき支援会 会社の近くの桜〈岩手県で2020年〉 寮では勉強机も広々〈岩手県で2020年〉

    2021年03月29日

  • Vol. 55 ベトナム人初の「ゴールド」

    今回の先輩  グエン・バー・フックさん 2012年  焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年  短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年  日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年  訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年  調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年  専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年  新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年  寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 「ゴールド」に認定〈2021年〉 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 ベトナムの調理師資格取得 短大での実習と当時の私の料理 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 日本語学習の工夫 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後はなるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 北海道函館市で過ごした日々 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) vol55_img12_17_3_2021 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮) 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 就職、転職、新型コロナ 北海道のホテルでの仕事 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 今後はベトナムで活動 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉 今回の先輩  Nguyễn Bá Phước(グエン・バー・フック)さん 2012年 焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年  短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年  日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年  訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年  調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年  専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年  新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年  寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 「ゴールド」に認定〈2021年〉 ベトナムの調理師資格取得 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 短大での実習と当時の私の料理 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 日本語学習の工夫 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後は北海道函館市で過ごした日々なるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 北海道函館市で過ごした日々 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 就職、転職、新型コロナ 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 北海道のホテルでの仕事 今後はベトナムで活動 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉

    2021年03月26日

  • Vol. 54 失踪、不法就労、そして失職

    今回の先輩 ズンさん=仮名 2018年高校卒業〈ドンナイ省〉 2019年送出機関に登録〈ホーチミン〉 2020年訪日(2月)→入国後講習 2020年建築の技能実習〈富山県、神奈川県〉 2020年不法就労(7~10月)〈長野県) 2020年日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年介護のアルバイト〈東京〉 〈1998年生まれ、ドンナイ省出身〉 ズンさん(仮名)は技能実習中に失踪し、農家で不法就労をしたが、この仕事を紹介した会社が警察に摘発された。失踪生活で心身ともに疲れ、「失踪せず、支援機関に相談すればよかった」と後悔する。 〈このページの内容〉 • 家業倒産で多額の借金 • 紹介少なく、不人気業種に応募 • 3カ月で労働内容変更 • 不平等な重労働 • ウーバーイーツ詐欺 • 不法就労へのプロセス • 不法就労の実態 • 失職 • 失踪の結末 家業倒産で多額の借金 私が通った送出機関の日本語センターで旧正月を祝うイベント 私の父はアンザン省で稲作と小型船エンジンの販売をしていましたが、私が高校生のときにエンジン販売業が倒産し、約7億ドン(約320万円)の負債ができました。両親は自宅と水田を売って一部を返済し、知人から紹介された家具工場で働くためにドンナイ省に移りました。私と兄は近所の祖父母のもとに残り、両親の生活が落ち着いてから合流しました。 高校2年の途中でドンナイ省に移り、3カ月間は両親と一緒に働き、翌年度に高2をもう一度やり直しました。転校前の成績はクラスの上位3分の1に入っていましたが、多額の借金があるので、進学をあきらめました。そのころ、高校に送出機関が来て技能実習の説明をしました。「日本に行けば、ベトナムでは考えられない額の給料をもらえ、技術も学べる」という説明でした。 紹介少なく、不人気業種に応募 不合格になった最初の採用面接〈ホーチミン市で2019年6月〉 私は技能実習生になろうと思い、どの送出機関に依頼すべきかネットで調べました。「信用できる送出機関ランキング(Top công ty xuất khẩu lao động nhật bản uy tín)」などのキーワードで検索し、約10社をリストアップしました。これらの会社に電話などで問い合わせ、条件や対応のよかった2社を訪問して1社を選びました。同社の担当者は「手取り給料は30,000,000ドン(約138,000円)を超える」と説明しました。 私はこの会社に2019年2月に登録しましたが、リサーチ不足だったことが後で分かりました。人気職種の求人紹介が少なかったのです。たまに良い求人があっても、他の送出機関からの紹介で、採用された場合に20,000,000ドンの追加料金がかかります。このため、6月にやっと最初の面接を受け(不合格)、7月に2回目の面接で合格しました。不人気の建設業でしたが、焦りもあって仕方なく応募したのです。 3カ月で労働内容変更 短かった富山での生活〈2020年3月〉 私は2020年2月に訪日し、3月から富山県で技能実習を始めました。手取り給料は約104,000円(約22,666,000ドン)でした。工場で機械を使って鉄筋を折り曲げ、針金で束ねてから運ぶ仕事でした。 当初の契約書では、1年間はこの作業で、2年目から建築現場で働くことになっていました。しかし、実際には、3カ月で神奈川県に転勤させられて新しい契約書に署名させられ、東京・新宿の超高層ビル建築現場にかり出されました。手取り給料は約135,000円に増えましたが、仕事が過酷なうえ、職場環境にも問題がありました。 不平等な重労働 新宿の超高層ビル建築現場〈2020年6月〉 ここでの仕事は8:00~17:00ですが、家を出るのは5:30、帰宅は19:30でした。いくつかの会社から役割の違うチームが集まり、私たちの会社からは10~20人(半分以上がベトナム人)が出向いていました。私たちの役割は鉄筋を組み立てるための準備ですが、同じチームの若い日本人3人が楽な仕事を取り、私たち実習生は鉄筋運びが中心でした。鉄筋を肩に担いで数十㍍運びます。1人で20㌔以上、2人で約50㌔の鉄筋を運ぶこともあります。鉄筋運びばかりを1日中させられることもあり、歩けなくなるぐらいけなくなるぐらい疲れました。現場責任者が状況を把握しておらず、仕事の割り振りが不平等だったのです。 また、若い日本人3人は休憩時間などに私たちの悪口を言いふらしていました。先輩実習生によると、「仕事のできが悪い」「帰国すればいい」などと言っていたそうです。関係を良くしようと、私たちが休憩時間に飲み物を渡しても、彼らには無視されてしまいました。 ウーバーイーツ詐欺 新大久保駅周辺〈資料写真〉 こうした日々が続き、私は失踪を考え始めました。仕事の過酷さや職場の人間関係も原因ですが、期待していた給料より低かったことが最大の要因でした。このままでは実家の借金をなかなか返せないと思ったのです。手取り給料がせめて150,000円あれば、思いとどまっていたかも知れません。 神奈川に転勤して1カ月後の7月4日(給料日の翌日)、同期のタム君(仮名)と私は失踪しました。そのころ、送出機関の同期で他社から先に失踪していたチェン君(仮名)が東京でウーバーイーツの仕事をしていました。ベトナムのグラブイーツと同じ仕事です。私たちは電車で東京のJR新大久保駅に行き、チェン君を訪ねました。彼は2段ベッドが3台置かれた狭い部屋に住んでいました。部屋の借主の留学生とチェン君ら失踪者3人がおり、私たちもここに1人1万円で2週間住ませてもらいました。 ウーバーイーツ配達員〈資料写真〉 ウーバーイーツの仕事をするにはアカウントを作らなければなりませんが、技能実習生は登録できませできません。そこで、アカウントのヤミ取引が行われています。私たちはチェン君の紹介で自称留学生のベトナム人2人に10万円ずつ払ってアカウントを購入しました。しかし、翌日にはログインできなくなり、彼らと連絡が取れなくなりました。私は売った男のSNS記録から彼の知人を探して男の住所を聞き出し、訪ねて行ってまず5万円を回収しました。ただ、相手はすぐに転居し、残額は回収できませんでした。 不法就労へのプロセス 不法就労現場の畑〈長野県川上村で2020年〉 そこで、私とタム君はFacebookページ“Tokyo Baito”で求人情報を探したり、失踪経験者などに問い合わせたりしました。私たちが使った送出機関の日本語教師(元実習生)2人にも問い合わせると、1人が日本に住む友人をSNSで紹介してくれました。その人からは、太陽光パネルや農業、解体の仕事があると連絡を受けましたが、勤務開始まで2週間かかるとのことだったので遠慮しました。 数日後、Tokyo Baitoで「長野県で農業の仕事。すぐに働ける」という趣旨の投稿を見つけました。私はSNSでたまたまつながっていた失踪実習生に「このバイトは信用できますか?」と尋ねました。彼は「大丈夫だ。この仕事のあっせん業者を紹介する」と言い、トゥンという人物をSNSで紹介してくれました。私とタム君はトゥン氏にメッセージを送り、先に返事をもらったタム君が翌日、長野県に行って農家を紹介されました。私にも1日遅れてトゥン氏から返信があり、偽造在留カードを作るためにパスポートと在留カードの写真を送信するよう指示されました。偽造費用の1万円を送金する際には、他人のキャッシュカードを使いました。私がネットでやり取りして違法に入手したカードでした。 偽造在留カードの費用を振り込むために使った他人のキャッシュカード 7月14日、新幹線で長野県の佐久平駅に着くと、トゥン氏が待っていました。彼が運転する車で約1時間かけて長野県川上村に向かう途中、ホアンという人物も乗車しました。偽造在留カードはまだできておらず、ホアン氏の指示で農家の主人に本物を見せたのですが、主人は承諾しました。 主人は不法就労と知りながら私を雇ったことになります。私はホアン氏に2万円を払い、その日からここに住みました。寮は倉庫の2階でした。 不法就労の実態 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 農家の仕事はハードでした。朝1時半に起きて、2時から11時半まで働きます。その間、休憩はわずか10分。その後、2時間の昼休みをはさんで13時半から16時半まで働きます。終業後は夕食とシャワーだけ済ませ、19時までに就寝します。未明の仕事では、ヘッドランプで照らしながらレタスの根元を包丁で切って収穫し、サイズを分けて箱詰めした後、トラックに載せます。午後は苗の植え付けや施肥、草むしりなどをします。 作業をするのは日本人3人とベトナム人3人です。川上村と隣の南牧村では約1,500戸の農家が外国人労働者を必要としていますが、新型コロナの影響で外国人の入国が止まり、ホアン氏らの不法就労あっせんに頼る農家が続出していたようです。 失職 ホアンアン社から送られてきたSNSメッセージ 当時はレタス出荷の最盛期で、9月末まで休日なしでしたが、手取り給料は7月(15日間):約15万円(約32,690,000ドン)▽8月:約24万円▽9月:約23万円――あったので、助かりました。ただ、10月には仕事が減り、約15万円になりました。給料はホアン氏らの会社の人が毎月車でやって来て現金で渡してくれました。毎月の出費は4万円くらいで、実家にたくさん送金できました。ただ、冬は給料が減るので、そろそろほかの仕事を探さなければと思っていた矢先、突然解雇されることになりました。 10月13日、会社からSNSで連絡が来ました。「警察に調べられている。ベトナム人労働者との契約を終える方向だ」という趣旨でした。20日、ベトナム人不法就労者100人以上が村の農協に集められ、大阪から来た日本人やホアン氏らから「ホアンアン合同会社に警察の捜査が入ったので、皆さんとの契約を終える。皆さん逃げてください」と通告されました。私は自分がホアンアンの派遣社員だったことを初めて知りました。27日、主人に駅まで車で送ってもらい、東京に戻りました。東京では、知人から紹介されたNPO法人に保護してもらいました。 【編集部からの説明】 「ホアンアン合同会社」は大阪市内の会社で、2020年10月、代表社員の女性やダン・ヴ・ホアン業務執行役員が、無許可で労働者を供給したとして職業安定法違反容疑で逮捕され、その後、起訴されました。 失踪の結末 ◆ わが家の借金と返済の状況 借金 返済 借金残額 1 倒産 700,000,000 đ 700,000,000 đ 2 家と水田売却 250,000,000 đ 450,000,000 đ 3 両親の工場勤務 150,000,000 đ 300,000,000 đ 4 私の訪日費用 190,000,000 đ 490,000,000 đ 5 家財売却 30,000,000 đ 460,000,000 đ 6 親せきの援助 130,000,000 đ 330,000,000 đ 7 私からの送金 150,000,000 đ 180,000,000 đ ※100,000,000₫ =約458,400円(2021年2月22日現在) 失踪して半月後、ビデオ通話中に私の部屋が以前と違うことに気付いた母に追及され、「失踪して農業をしている」と白状しました。母はとても心配しました。 また、富山県の3カ月で計21万円、長野県の4カ月で計50万円を両親に送りましたが、失職後の2カ月間半は無収入でした。失踪すると雇用が安定せず、無職の時期もできるので、失踪せず地道に働き続ける方が、結局はたくさん送金できるようです。 日越ともいき支援会で〈2020年10月〉 私は今では、失踪したことを後悔しています。不法就労は精神的にも疲れました。しかも、農家の仕事は工事現場の仕事と同じぐらいきつかったうえ、夜間や休日の割り増し賃金が支払われませんでした。それなのに、不法就労なのでどこにも相談できませんでした。今なら、技能実習先で困難があれば、まず監理団体に相談します。それでだめなら外国人技能実習機構(OTIT)や民間の支援機関に相談します。 私はNPO法人日越ともいき支援会の支援で2021年1月から介護のアルバイトをしています。今の手取りは11万~13万円ですが、試験に受かって特定技能外国人になれれば、給料が上がり長期間働けます。地道に働いて借金を返し、将来のために貯金もしたいと思います。 今回の先輩 Dung(ズン)さん=仮名 2018年 高校卒業〈ドンナイ省〉 2019年 送出機関に登録〈ホーチミン〉 2020年 訪日(2月)→入国後講習 2020年 建築の技能実習〈富山、神奈川〉 2020年 不法就労(7~10月)〈長野) 2020年 日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年 介護のアルバイト〈東京〉 〈1998年生まれ、ドンナイ省出身〉 ズンさん(仮名)は技能実習中に失踪し、農家で不法就労をしたが、この仕事を紹介した会社が警察に摘発された。失踪生活で心身ともに疲れ、「失踪せず、支援機関に相談すればよかった」と後悔する。 〈このページの内容〉 • 家業倒産で多額の借金 • 紹介少なく、不人気業種に応募 • 3カ月で労働内容変更 • 不平等な重労働 • ウーバーイーツ詐欺 • 不法就労へのプロセス • 不法就労の実態 • 失職 • 失踪の結末 家業倒産で多額の借金 私の父はアンザン省で稲作と小型船エンジンの販売をしていましたが、私が高校生のときにエンジン販売業が倒産し、約7億ドン(約320万円)の負債ができました。両親は自宅と水田を売って一部を返済し、知人から紹介された家具工場で働くためにドンナイ省に移りました。私と兄は近所の祖父母のもとに残り、両親の生活が落ち着いてから合流しました。 高校2年の途中でドンナイ省に移り、3カ月間は両親と一緒に働き、翌年度に高2をもう一度やり直しました。転校前の成績はクラスの上位3分の1に入っていましたが、多額の借金があるので、進学をあきらめました。そのころ、高校に送出機関が来て技能実習の説明をしました。「日本に行けば、ベトナムでは考えられない額の給料をもらえ、技術も学べる」という説明でした。 私が通った送出機関の日本語センターで旧正月を祝うイベント 紹介少なく、不人気業種に応募 私は技能実習生になろうと思い、どの送出機関に依頼すべきかネットで調べました。「信用できる送出機関ランキング(Top công ty xuất khẩu lao động nhật bản uy tín)」などのキーワードで検索し、約10社をリストアップしました。これらの会社に電話などで問い合わせ、条件や対応のよかった2社を訪問して1社を選びました。同社の担当者は「手取り給料は30,000,000ドン(約138,000円)を超える」と説明しました。 私はこの会社に2019年2月に登録しましたが、リサーチ不足だったことが後で分かりました。人気職種の求人紹介が少なかったのです。たまに良い求人があっても、他の送出機関からの紹介で、採用された場合に20,000,000ドンの追加料金がかかります。このため、6月にやっと最初の面接を受け(不合格)、7月に2回目の面接で合格しました。不人気の建設業でしたが、焦りもあって仕方なく応募したのです。 不合格になった最初の採用面接〈ホーチミン市で2019年6月〉 3カ月で労働内容変更 私は2020年2月に訪日し、3月から富山県で技能実習を始めました。手取り給料は約104,000円(約22,666,000ドン)でした。工場で機械を使って鉄筋を折り曲げ、針金で束ねてから運ぶ仕事でした。 当初の契約書では、1年間はこの作業で、2年目から建築現場で働くことになっていました。しかし、実際には、3カ月で神奈川県に転勤させられて新しい契約書に署名させられ、東京・新宿の超高層ビル建築現場にかり出されました。手取り給料は約135,000円に増えましたが、仕事が過酷なうえ、職場環境にも問題がありました。 短かった富山での生活〈2020年3月〉 不平等な重労働 ここでの仕事は8:00~17:00ですが、家を出るのは5:30、帰宅は19:30でした。いくつかの会社から役割の違うチームが集まり、私たちの会社からは10~20人(半分以上がベトナム人)が出向いていました。私たちの役割は鉄筋を組み立てるための準備ですが、同じチームの若い日本人3人が楽な仕事を取り、私たち実習生は鉄筋運びが中心でした。鉄筋を肩に担いで数十㍍運びます。1人で20㌔以上、2人で約50㌔の鉄筋を運ぶこともあります。鉄筋運びばかりを1日中させられることもあり、歩けなくなるぐらい けなくなるぐらい疲れました。現場責任者が状況を把握しておらず、仕事の割り振りが不平等だったのです。 また、若い日本人3人は休憩時間などに私たちの悪口を言いふらしていました。先輩実習生によると、「仕事のできが悪い」「帰国すればいい」などと言っていたそうです。関係を良くしようと、私たちが休憩時間に飲み物を渡しても、彼らには無視されてしまいました。 新宿の超高層ビル建築現場〈2020年6月〉 ウーバーイーツ詐欺 こうした日々が続き、私は失踪を考え始めました。仕事の過酷さや職場の人間関係も原因ですが、期待していた給料より低かったことが最大の要因でした。このままでは実家の借金をなかなか返せないと思ったのです。手取り給料がせめて150,000円あれば、思いとどまっていたかも知れません 神奈川に転勤して1カ月後の7月4日(給料日の翌日)、同期のタム君(仮名)と私は失踪しました。そのころ、送出機関の同期で他社から先に失踪していたチェン君(仮名)が東京でウーバーイーツの仕事をしていました。ベトナムのグラブイーツと同じ仕事です。私たちは電車で東京のJR新大久保駅に行き、チェン君を訪ねました。彼は2段ベッドが3台置かれた狭い部屋に住んでいました。部屋の借主の留学生とチェン君ら失踪者3人がおり、私たちもここに1人1万円で2週間住ませてもらいました。 新大久保駅周辺〈資料写真〉 ウーバーイーツの仕事をするにはアカウントを作らなければなりませんが、技能実習生は登録できませ できません。そこで、アカウントのヤミ取引が行われています。私たちはチェン君の紹介で自称留学生のベトナム人2人に10万円ずつ払ってアカウントを購入しました。しかし、翌日にはログインできなくなり、彼らと連絡が取れなくなりました。私は売った男のSNS記録から彼の知人を探して男の住所を聞き出し、訪ねて行ってまず5万円を回収しました。ただ、相手はすぐに転居し、残額は回収できませんでした。 ウーバーイーツ配達員〈資料写真〉 不法就労へのプロセス そこで、私とタム君はFacebookページ“Tokyo Baito”で求人情報を探したり、失踪経験者などに問い合わせたりしました。私たちが使った送出機関の日本語教師(元実習生)2人にも問い合わせると、1人が日本に住む友人をSNSで紹介してくれました。その人からは、太陽光パネルや農業、解体の仕事があると連絡を受けましたが、勤務開始まで2週間かかるとのことだったので遠慮しました。 数日後、Tokyo Baitoで「長野県で農業の仕事。すぐに働ける」という趣旨の投稿を見つけました。私はSNSでたまたまつながっていた失踪実習生に「このバイトは信用できますか?」と尋ねました。彼は「大丈夫だ。この仕事のあっせん業者を紹介する」と言い、トゥンという人物をSNSで紹介してくれました。私とタム君はトゥン氏にメッセージを送り、先に返事をもらったタム君が翌日、長野県に行って農家を紹介されました。私にも1日遅れてトゥン氏から返信があり、偽造在留カードを作るためにパスポートと在留カードの写真を送信するよう指示されました。偽造費用の1万円を送金する際には、他人のキャッシュカードを使いました。私がネットでやり取りして違法に入手したカードでした。 不法就労現場の畑〈長野県川上村で2020年〉 7月14日、新幹線で長野県の佐久平駅に着くと、トゥン氏が待っていました。彼が運転する車で約1時間かけて長野県川上村に向かう途中、ホアンという人物も乗車しました。偽造在留カードはまだできておらず、ホアン氏の指示で農家の主人に本物を見せたのですが、主人は承諾しました。主人は不法就労と知りながら私を雇ったことになります。 私はホアン氏に2万円を払い、その日からここに住みました。寮は倉庫の2階でした。 偽造在留カードの費用を振り込むために使った他人のキャッシュカード 不法就労の実態 農家の仕事はハードでした。朝1時半に起きて、2時から11時半まで働きます。その間、休憩はわずか10分。その後、2時間の昼休みをはさんで13時半から16時半まで働きます。終業後は夕食とシャワーだけ済ませ、19時までに就寝します。未明の仕事では、ヘッドランプで照らしながらレタスの根元を包丁で切って収穫し、サイズを分けて箱詰めした後、トラックに載せます。午後は苗の植え付けや施肥、草 むしりなどをします。 作業をするのは日本人3人とベトナム人3人です。川上村と隣の南牧村では約1,500戸の農家が外国人労働者を必要としていますが、新型コロナの影響で外国人の入国が止まり、ホアン氏らの不法就労あっせんに頼る農家が続出していたようです。 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 失職 当時はレタス出荷の最盛期で、9月末まで休日なしでしたが、手取り給料は7月(15日間):約15万円(約32,690,000ドン)▽8月:約24万円▽9月:約23万円――あったので、助かりました。ただ、10月には仕事が減り、約15万円になりました。給料はホアン氏らの会社の人が毎月車でやって来て現金で渡してくれました。毎月の出費は4万円くらいで、実家にたくさん送金できました。ただ、冬は給料が減るので、そろそろほかの仕事を探さなければと思っていた矢先、突然解雇されることになりました。 10月13日、会社からSNSで連絡が来ました。「警察に調べられている。ベトナム人労働者との契約を終える方向だ」という趣旨でした。0日、ベトナム人不法就労者100人以上が村の農協に集められ、大阪から来た日本人やホアン氏らから「ホアンアン合同会社に警察の捜査が入ったので、皆さんとの契約を終える。皆さん逃げてください」と通告されました。私は自分がホアンアンの派遣社員だったことを初めて知りました。27日、主人に駅まで車で送ってもらい、東京に戻りました。東京では、知人から紹介されたNPO法人に保護してもらいました。 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 【編集部からの説明】 「ホアンアン合同会社」は大阪市内の会社で、2020年10月、代表社員の女性やダン・ヴ・ホアン業務執行役員が、無許可で労働者を供給したとして職業安定法違反容疑で逮捕され、その後、起訴されました。 失踪の結末 失踪して半月後、ビデオ通話中に私の部屋が以前と違うことに気付いた母に追及され、「失踪して農業をしている」と白状しました。母はとても心配しました。また、富山県の3カ月で計21万円、長野県の4カ月で計50万円を両親に送りましたが、失職後の2カ月間半は無収入でした。失踪すると雇用が安定せず、無職の時期もできるので、失踪せず地道に働き続ける方が、結局はたくさん送金できるようです。 ◆ わが家の借金と返済の状況 借金 返済 借金残額 1 倒産 700,000,000 đ 700,000,000 đ 2 家と水田売却 250,000,000 đ 450,000,000 đ 3 両親の工場勤務 150,000,000 đ 300,000,000 đ 4 私の訪日費用 190,000,000 đ 490,000,000 đ 5 家財売却 30,000,000 đ 460,000,000 đ 6 親せきの援助 130,000,000 đ 330,000,000 đ 7 私からの送金 150,000,000 đ 180,000,000 đ ※100,000,000₫ =約458,400円(2021年2月22日現在) 私は今では、失踪したことを後悔しています。不法就労は精神的にも疲れました。しかも、農家の仕事は工事現場の仕事と同じぐらいきつかったうえ、夜間や休日の割り増し賃金が支払われませんでした。それなのに、不法就労なのでどこにも相談できませんでした。今なら、技能実習先で困難があれば、まず監理団体に相談します。それでだめなら外国人技能実習機構(OTIT)や民間の支援機関に相談します。 私はNPO法人日越ともいき支援会 の支援で2021年1月から介護のアルバイトをしています。今の手取りは11万~13万円ですが、試験に受かって特定技能外国人になれれば、給料が上がり長期間働けます。地道に働いて借金を返し、将来のために貯金もしたいと思います。 日越ともいき支援会で〈2020年10月〉

    2021年03月19日

  • Vol. 53 地域医療への貢献約束に奨学金

    今回の先輩 ルー・ホン・ゴックさん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業  2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年 盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年  秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈このページの内容〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 日本を選んだ理由 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 好条件の奨学金 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 留学準備(日本語) 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 大学医学部合格への道 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 医学部での取り組み 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 大学の仲間 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 地域貢献のやりがい 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉 今回の先輩 Luu Hong Ngoc(ルー・ホン・ゴック)さん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業  2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年  盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年  秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈Nội dung bài viết〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 日本を選んだ理由 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 好条件の奨学金 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 留学準備(日本語) 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 大学医学部合格への道 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 医学部での取り組み 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 大学の仲間 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 地域貢献のやりがい 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉

    2021年03月15日

主催者

Nhà tài trợ Bạch Kim

後援

  • 在ベトナム日本国大使館
  • 国際交流基金ベトナム日本文化交流センター
  • JNTOハノイ事務所
  • 関西経済連合会
  • 一般社団法人 国際人流振興協会
  • 公益社団法人 ベトナム協会
  • NPO法人 日越ともいき支援会

協力

JASSO(日本学生支援機構)

外国人労働者弁護団

WA.SA.Bi.